2008年5月、中ロ国境の旅(その10)

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いよいよウスリースク滞在最終日となった。早起きして、少し早めに(午前7時前)にバスターミナルに向かう。バスターミナルは近いので、乗り遅れる心配はないが、バスのできるだけよい席を確保するため(これは多くの国を旅行するときに重要なこと)と、他の中国行きのバスの状況を見るために早めに出発した。



バスターミナルには、国内バスと国際バスの両方が発着する。中国行きの国際バスはバスターミナルの建物の裏側から発着する。すでにハルビン行き国際バスと延吉行き、綏芬河行きのバスが到着していた。

ハルビン行き国際バスは、この地区で言うと幹線にあたる路線だ。中国製の大型バスで設備もよさそうだった。



延吉行きの国際バスはというと、中型バスで、車両性能も乗り心地も一段劣る。ロシアのバス(月・水・金発)は韓国製の中古バスで、もう少し良いらしい。





バスは定刻を5分ほど過ぎてバスターミナルを出発した。市内を抜けてウラジオストクに向かう連邦道路に入る。途中でスラビヤンカ方面に向かう道に分岐し、スラビヤンカ方面に向かう。途中、主だった町に停車しながら、スラビヤンカ、クラスキノを経由して、琿春に向かった。



クラスキノでは休憩のために、商店の前でしばし停車。ここで昼食用にピロシキやパンを調達する。配達されてきたばかりのピロシキはほのかに温かく、ふわふわだった。



クラスキノの街を出て、中国国境へと向かう道に入る。周囲は荒涼たる原野。国境を越えるとあたりは一面の耕作地になるので、そのコントラストが国境を越えたことを意識させる。

割合スムーズな出国手続の後、バスはいくつかの関門を経由して中ロ国境へ。中国入国は非常にスムーズ。今回はロシア側で待ち時間40分、手続30分。中国側は待ち時間なし、手続は20分で終わった。

国境の税関を出たところで、買い物目的のロシア人を数名下ろし、バスは琿春の街へと向かう。琿春のバスターミナルで私ともう一人の客以外の全員が降りた。その時、ロシアでは考えられないトラブルが発生した。

何と、このバスの運転手がわれわれ2人に対して、「乗客が2人しかいないバスを運転して延吉まで行くことはできない。国内バスを手配するから乗り換えてくれ」と言い出したのだ。このバスは中国のバスで、バス会社は延吉ではなく、琿春。おそらく延吉までの往復200キロ分の燃料代を節約したいのだろう。

国内バスならともかく、ロシアで高い運賃を払った国際バスの乗客に対して、こういう契約違反をするのかと腹が立った。しかし、中国では資本主義を支えるはずの契約観念や法の支配が社会に流布する前に、社会主義が登場する前に存在した赤裸々な資本主義(決して「赤い資本主義」ではない)が跋扈する社会が出来上がってしまったようだ。

結局、ウスリースク~延吉とウスリースク~琿春の運賃差額100ルーブル(約450円)を取り返す交渉をし、バスを降りた。運転手は「この金をやったんだから、バスの手配はしてやらないぞ」と言ったが、ここはバスターミナル。延吉行きのバスは頻繁に出ている。

バスターミナルに入ると、運良く延吉行きの中型バスの改札をしているところだった。21.5元(約320円)のきっぷを買い、バスに乗り込む。私が乗り込むとバスはすぐに発車した。窓の外を見ると、先ほど降りたバスの運転手が、このバスの運転手に向かって「この客を乗せてやってくれ」と交渉しているではないか。しかし、運転手は同僚の願いもむなしく、空席は途中から乗ってきた乗客のためのものだと厳かに宣言してバスは出発した。

今回の中ロ国境の旅は、久しぶりに初めて訪れる街がある新鮮な旅だった。ロシアの地方都市の人々の暮らしぶりとそこに流れる穏やかな時間と急速に経済発展を遂げる中国の地方都市の少し殺伐とした人々の暮らし、それが国境線をはさんで同時代に共存していることを肌で感じられたのが一番の収穫だったと思う。

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