2008年12月アーカイブ

2008年6月、前回の吉林省・延辺からウスリースクの往復に引き続き、今度は黒龍江省の黒河からロシア・アムール州のブラゴベシチェンスク、ハバロフスク地方のハバロフスクを経て、また黒龍江省に戻る中ロ国境の旅に出かけた。

ハルビンでの会議の後、空路で中ロ国境の街、黒河入りした。


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ハルビンから黒河までは約1時間。中国南方航空(北方分公司)のA320で快適なフライトだった。黒河空港到着後、荷物を受け取り、ターミナルビルから出る。空港バスを探したが、どうもないようだ。

タクシーの運転手が近づいてくる。「乗らないのか」と尋ねてくるが、とりあえず「乗らない」と答え、バスを探す。しかし、バスはない。仕方がないので、タクシーとの値段交渉に入る。言い値は50元、少し高い。乗る、乗らない、街まで歩いていく(20キロくらいある)を繰り返し、25元まで下がった。少し安すぎるので、後で値段が上がるかも知れない(実際そうなった)と思いながらタクシーに乗り、市内のホテルに向かう。

空港から市内までは、片側1車線の立派な舗装道路。車がほとんど通らないので、15分ほどで街の入り口までやってきた。道路工事で舗装がはがしてあるところを、濛々たる土ぼこりの中を進む。窓を閉めても、隙間から埃が入ってきて、全身土ぼこりでコーティングされてしまった。



ホテルにチェックイン後、黒河市内を散歩する。黒河は小さい街なので、繁華街はそれほど大きくない。繁華街を抜けて黒龍江(ウスリー川)に向かう。河岸の公園を散歩すると、黒龍江で水泳をしている人々を見かけた。川の向こうは、ロシア・ブラゴベシチェンスク市。陸上国境のない日本から来ると、何となく珍しい国境だ。

散歩の次は、食事。36度の酷暑の中、レストランを探す。黒龍江(ウスリー川)からそれほど遠くないところに、割合清潔な感じの中国料理店があった。店に入ると、ロシア人のお客さんも多い。





ロシア人のお客さんはメニューを見ているが、私は中国人に見えたのか(日本人はほとんど来ないだろうから、当たり前か)、先にサンプルを見ながら料理を注文しろといわれる。
ナスの炒め物と水餃子、この店で醸造している生ビールを頼み、席に着く。隣の席はロシア人だった。

この店に限らず、黒河市内の比較的こぎれいな飲食店にはロシア人がたくさんいた。ケンタッキー・フライドチキンにもロシア語で注文できるカウンターがあった。田舎町の黒河には、ロシア人が清潔だと感じる飲食店はそれほど多くはないのだろう。



黒河の市内を歩くと、対岸のロシア・ブラゴベシチェンスクから多くの買い物客が来るようで、街中の看板にはキリル文字が併記されている。吉林省の琿春にも同じような看板があるが、あちらは中・朝・ロ3言語表記なので、中ロ2言語表示の看板は少し新鮮な感じがした。



市内の店の分布を見ると、明らかにロシア人買い物客を意識したと思われる店がいくつもあることに気がついた。ほとんどすべてが中国製だろうが、商品の陳列や店の雰囲気はロシア風、という店が結構あるようだ。下の写真の女性用下着屋さんなどは、中国人の入店を断る表示まであった。



こうしたこじゃれた店の他に、ロシアからの渡し船が着く黒河口岸の近くには、大型の市場「大黒河島国際商貿城」がある。ここは多くの個人事業主が小間ごとに入居する形の市場で、主にロシアからの買い物客を対象として商売をしている。

売っているものは食品、日用雑貨、衣類、自動車用品、DIY用品などさまざまで値段もそれほど高くはないようだった。私は中国人に見えるので、あちこち見て回ると、同業者の敵情調査に思われるようで、あちこちから鋭い視線が飛んできた。




このように現在の中国・黒龍江省黒河市とロシア・アムール州・ブラゴベシチェンスク市の間には、買い物客や観光客の往来を通じて密接な交流関係が形作られている。

旧ソ連の社会主義政権が崩壊したころは、中国からロシアへ商人が出かけていって、ブラゴベシチェンスクが中ロの民間貿易の中心になったこともあったようだ。

現在はロシア人の買い物客が圧倒的に多く、中国人は若干の商人が往復しているようだ。ロシアも中国も国境の行き来が盛んになるのを手放しでよろこんでいるわけではない側面もあるようだ。

中ソ対立が深刻だったころ、黒河は最前線で、いつソ連の攻撃を受けるかわからないところだった(これは吉林省の琿春も同じ)。それがソ連の社会主義政権崩壊後は、一転して中ロ間の貿易の中心となった。黒河は1858年に清とロシアが締結したアイグン(璦琿)条約が結ばれた地だ。国際関係を考えるときには、5年、10年といった短期の歴史だけでなく、数十年~100年の中期的な歴史、それ以上の長期的な歴史をも考えないといけないなと、黒河の街を歩きながら考えた。

いよいよウスリースク滞在最終日となった。早起きして、少し早めに(午前7時前)にバスターミナルに向かう。バスターミナルは近いので、乗り遅れる心配はないが、バスのできるだけよい席を確保するため(これは多くの国を旅行するときに重要なこと)と、他の中国行きのバスの状況を見るために早めに出発した。



バスターミナルには、国内バスと国際バスの両方が発着する。中国行きの国際バスはバスターミナルの建物の裏側から発着する。すでにハルビン行き国際バスと延吉行き、綏芬河行きのバスが到着していた。

ハルビン行き国際バスは、この地区で言うと幹線にあたる路線だ。中国製の大型バスで設備もよさそうだった。



延吉行きの国際バスはというと、中型バスで、車両性能も乗り心地も一段劣る。ロシアのバス(月・水・金発)は韓国製の中古バスで、もう少し良いらしい。





バスは定刻を5分ほど過ぎてバスターミナルを出発した。市内を抜けてウラジオストクに向かう連邦道路に入る。途中でスラビヤンカ方面に向かう道に分岐し、スラビヤンカ方面に向かう。途中、主だった町に停車しながら、スラビヤンカ、クラスキノを経由して、琿春に向かった。



クラスキノでは休憩のために、商店の前でしばし停車。ここで昼食用にピロシキやパンを調達する。配達されてきたばかりのピロシキはほのかに温かく、ふわふわだった。



クラスキノの街を出て、中国国境へと向かう道に入る。周囲は荒涼たる原野。国境を越えるとあたりは一面の耕作地になるので、そのコントラストが国境を越えたことを意識させる。

割合スムーズな出国手続の後、バスはいくつかの関門を経由して中ロ国境へ。中国入国は非常にスムーズ。今回はロシア側で待ち時間40分、手続30分。中国側は待ち時間なし、手続は20分で終わった。

国境の税関を出たところで、買い物目的のロシア人を数名下ろし、バスは琿春の街へと向かう。琿春のバスターミナルで私ともう一人の客以外の全員が降りた。その時、ロシアでは考えられないトラブルが発生した。

何と、このバスの運転手がわれわれ2人に対して、「乗客が2人しかいないバスを運転して延吉まで行くことはできない。国内バスを手配するから乗り換えてくれ」と言い出したのだ。このバスは中国のバスで、バス会社は延吉ではなく、琿春。おそらく延吉までの往復200キロ分の燃料代を節約したいのだろう。

国内バスならともかく、ロシアで高い運賃を払った国際バスの乗客に対して、こういう契約違反をするのかと腹が立った。しかし、中国では資本主義を支えるはずの契約観念や法の支配が社会に流布する前に、社会主義が登場する前に存在した赤裸々な資本主義(決して「赤い資本主義」ではない)が跋扈する社会が出来上がってしまったようだ。

結局、ウスリースク~延吉とウスリースク~琿春の運賃差額100ルーブル(約450円)を取り返す交渉をし、バスを降りた。運転手は「この金をやったんだから、バスの手配はしてやらないぞ」と言ったが、ここはバスターミナル。延吉行きのバスは頻繁に出ている。

バスターミナルに入ると、運良く延吉行きの中型バスの改札をしているところだった。21.5元(約320円)のきっぷを買い、バスに乗り込む。私が乗り込むとバスはすぐに発車した。窓の外を見ると、先ほど降りたバスの運転手が、このバスの運転手に向かって「この客を乗せてやってくれ」と交渉しているではないか。しかし、運転手は同僚の願いもむなしく、空席は途中から乗ってきた乗客のためのものだと厳かに宣言してバスは出発した。

今回の中ロ国境の旅は、久しぶりに初めて訪れる街がある新鮮な旅だった。ロシアの地方都市の人々の暮らしぶりとそこに流れる穏やかな時間と急速に経済発展を遂げる中国の地方都市の少し殺伐とした人々の暮らし、それが国境線をはさんで同時代に共存していることを肌で感じられたのが一番の収穫だったと思う。

市場では、ミネラルウォーターやチョコレートなどを買い、ホテルまで散歩がてら歩いて帰った(実は近かった)。朝早くから活動したので、一休み。日曜日の残りはのんびりと部屋で過ごした。夕食はホテルの1階に入っている居酒屋(といっても日本風のではなく、ブラッセリー)で食べた。ビールをジョッキで4杯と料理数品であわせて800ルーブル(約4500円)ほど。恐ろしく物価が高いと思った。

翌、月曜日はホテルのチェックアウト時間までにしないといけないことがある。外国人登録だ。土曜日にチェックインした際、このホテルでは外国人登録ができないので2泊しか泊めてあげられないと言われたのだ。

朝食後、オフィスが開いたところで作戦開始。ホテルのフロントに行って、外国人登録をしてくれるように頼んだ。ところが、ホテルでは外国人登録はできないとの一点張り。何か他に方法はないのかと尋ねると、フロントの係員は警備員を呼んだ。どうも、私をどこかに案内しろと言っているようだった。

警備員に案内された向かった先はホテルの事務所。外国人登録をしてやっていいかどうか尋ねている様子。結局、この部屋でも問題は解決せず、別の部屋へ。次に案内されたのは支配人室だった。支配人とおぼしき女性が、「困ったなぁ」という顔をして警備員と話していた。何か名案でも思いついたのか、急に表情が明るくなった。案の定、警備員は私を別の事務所に案内してくれた。

事務所では、英語を話す係員が、「外国人登録手続ができる」と断言した。「ただ、今日中にできるかどうかは分からない」とのこと。翌日出発予定だった私にとっては、それは致命傷となる。「今日できないなら、今日出国しないといけない」と私が言うと、「何とかしてみる」との返答。ところが、登録料金として500ルーブル(約2300円)いるという。これまでロシアのホテルで外国人登録料金を取られたことがなかった私としては衝撃的な宣告であったが、背に腹は代えられないので、500ルーブル払う。その代わり、領収書を作成してもらった(実は、ここはホテルの事務所ではなかったことが後で判明する)。

外国人登録ができるということが分かり、少し安心したが、次にホテルの宿泊期間の延長をしなければならない。警備員に連れられてフロントに戻る。警備員がこれまでの経緯をフロントの係員に話すと、1泊の延長が認められた。前金を払い(カード決済だが)、書類に訂正をしてもらう。

これでとりあえずウスリースクにもう一泊できることになった。次は、ウスリースクを出る足を確保しないといけない。ホテルを出て、バスターミナルに向かう。

バスターミナルで国際バスの切符売り場を探す。延吉行きは国内線の切符を売っているカウンターで販売していた。延吉まで1460ルーブル(約6600円)、高い。延吉からウスリースクまでは300元(約4500円)しないのでロシア発の方が高く設定されている(これはそんなに珍しいことではなく、福岡~釜山のジェットフォイルだって日本発は13000円、釜山発は95000ウォン(ちょっと前までは約9500円、今は約6000円になってしまった)である)。



チケットを手に入れることができ、とりあえず一安心。バスターミナルの近くの惣菜屋で昼食をとった。テイクアウトの惣菜屋さんだが、テーブルがいくつかあり、食べていくこともできる。サラダと魚、パンと紅茶で130ルーブル(約600円)。

昼食後は昼寝。朝から忙しくしたので疲れた。午後4時半、業務終了まで少し余裕を残し、外国人登録をお願いした事務所に行く。



500ルーブルの高額料金のおかげか、外国人登録はもうできていた。担当者と話すと、ここの「旅行会社」では、ビザの招聘状の発行など、いろいろな業務をやっているとのこと。担当者の机上には中露辞典がおいてあった。中国語も話せるとのことだった。結局、ホテルの支配人がホテルの事務所棟に入っている旅行会社を紹介してくれたことが判明した。

外国人登録が済んだので、今度は市内へ。ホテルの近くには(Nekrasova str. 59)日本円を両替できる銀行がある。ウスリースクの他の銀行では日本円の表示が出ていない(ドルとユーロはある。後は日本円か中国元のどちらかの表示がある銀行がちらほら)。ウスリースクまで来ると、日本の影響力は減退し、代わりに中国の影響力が強くなるようだ。



銀行の隣には、Megumiという名前の、日本雑貨を扱うお店があった。シャンプーやリンス、食料品、日用品といろいろな日本の商品が売られていた。値段は当たり前のことだが、日本の2~3倍くらい。100円ショップなどで売っている商品だと4~5倍するものもある。





店内に入ると万引き防止のためか、カバンをロッカーに預けて、その後商品を見ることになる。カードも使えるので、雑貨店というよりは日本商品ショップ、という感じだろうか。インテリアも割合垢抜けていて、おしゃれな感じがした。ロシア極東における日本のイメージはこういう感じなのかな、と思った。中国市場が中国のイメージを代表しているとすると、かなり差があるなと思った。

中国市場を探検した後、今度は街の普通の市場に行ってみることにした。中国市場は広大で様々なものを売っているが、ホテルで飲む水とか、ちょっとしたお菓子などを買うには市内の中心にある市場の方が何かと便利がいい。

先ほど行ったウスリースクバスターミナルの筋向かいに市場らしきものがあった。しかし、朝早かったので、まだ開いていなかった。先ほど来た道を引き返し、市内中心部に戻る。



市場にはいろいろな生鮮食料品や加工食品が売られていた。店主の多くは高麗人、すなわち朝鮮系ロシア人のようだった。中国市場が巨大で雑踏の感じがするのに比べて、こちらの市場はこぢんまりとしていた。









初めて本格的なロシアの市場をまわったが、値段は日本に比べて特に安いわけではない。やはり、中国とは物価が全く異なる。この価格差を中国商人が商機と思わないわけがないな、と思った。同時に、デフレが進んだ日本と同じく、価格破壊が起こることによって収入の道が閉ざされる人たちも多くいたのだろうと思った。日本の場合は、それがグローバリゼーションとか規制緩和といった言葉で説明されたが、ロシアではどうだったのだろうか。

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