日本がこの迷惑に対して、朝鮮に抗議することは当然のことだと思う(ただ、朝鮮の人々は植民地支配を前後して、日本にもっと大きな被害を受けたと思っているので、この程度の迷惑に対して謝ろうという気は起こらないだろうが)。
日本の報道では今回のロケットを「弾道ミサイル」として、日本に対する軍事的攻撃のように報道したが、日本を射程に入れてすでに配備されているといわれるノドンミサイルと異なり、こちらはミサイルとして利用されたとしても、米国領土を射程に入れることを目的として生産されているものであり、日本に対する脅威はそれほど大きくはない。
今回の日本を標的としたミサイルでもないロケットの発射(日米韓はミサイルと主張するが、国により受け止め方は異なる)によって、日本が高度な軍事的脅威にさらされたかといえばそうではない。日本での朝鮮のロケット発射に対する反応や議論は、日本に対する迷惑に対する怒りと、北東アジアの軍事的緊張を激化させた行動に対する対応、日朝交渉がうまくいかないことに対するいらだちなどがごちゃ混ぜになっている。
では、なぜ朝鮮はロケットを発射したのか。朝鮮が核兵器や弾道ミサイルを開発する最も大きな理由は、米朝関係が正常化されていないためだ。米朝関係が改善され、北東アジアにおける冷戦構造が消滅することこそが朝鮮が望んでいることだ(もちろん、それ以外にもいろいろな目算があろうことは推測できる)。
朝鮮によるロケットの発射は、米国に対する挑発であり、北東アジアの安全保障にとってよい影響を与えないことは明白で、中国やロシアも発射を歓迎しているわけではない。朝鮮は国際的な孤立というリスクをとってロケットを発射したわけだ。朝鮮は懸命に米国の対朝鮮敵視政策の転換と米朝国交正常化、朝鮮戦争休戦協定の平和協定への転換を求めているといえる。
さまざまな報道を総合すると、米国は自国発の世界経済危機への対応、イラク戦争終結への道筋、「テロとの戦い」とアフガニスタン情勢、中東問題、核軍縮の進展と米国が行わなければならない内政上、外交上の課題は多い。その中で、朝鮮半島問題の優先度が政権発足当初よりかなり落ちてきている。そこで、ロケットを発射することにより、この優先度を高めようとしていると言われている。
国内的事情に目をやると、今日、金正日政権第3期目の第12期最高人民会議第1回大会が開かれ、金正日総書記は再び国防委員長に推戴された。経済政策では科学技術、特にITやハイテクを重視し、2012年には「強盛大国の大門を開く」とのスローガンで生産正常化から経済成長路線への離陸を図ろうとしている朝鮮にとって、米国の敵視政策にもかかわらず、独自の技術で第2回目の衛星発射に成功したという実績をアピールすることは、「自力更生」で高い経済目標を達成しなければならない国民に将来への期待を高めさせるという点で必要なことであったと思われる。
そのためか、米国もロシアも衛星の軌道投入は認められない(失敗した)としているにもかかわらず、朝鮮は朝鮮中央通信を通じて、人工衛星の軌道投入が成功したと報じている(中国は自らの論評は行わず、朝鮮の報道を引用する形で、朝鮮のメンツを保っているようだ)。
前回の「光明星1号」(テポドン1号)は1998年8月31日に発射されたが、その直後の9月5日に金正日政権の正式とスタートとなる最高人民会議第10期第1回会議の開催が予定されていた。この会議では1992年の改正以降6年ぶりに憲法改正が行われ、金日成時代の行政システムを改編する大規模な行政改革が行われた。
今回は、厳しい国際情勢の中、大規模な憲法改正など抜本的な指導体系の変更につながる機構改革は行われないであろうが、韓国の宣伝ビラや貿易や親族訪問を通じて中国などから伝えられ、国民の間に噂として広まっているとされる金正日総書記の健康問題など、国民の動揺を抑え、晴れ晴れとした気持ちで新たな最高人民会議を迎えるために打ち上げを行ったと考えられる。
このようなロケットに対し、必要以上の過剰反応で応えることは、逆に朝鮮に対する恐怖心を日本国民に植え付け、このロケットの軍事的脅威を過大に評価させる結果につながる。本当に危険なのは、すでに配備されているといわれるノドンミサイルの方であり、それに搭載可能な核弾頭が開発されることだ。そうなる前に、朝鮮の核放棄を誘導するなり、朝鮮との関係を改善し、攻撃の意思を失わせるなりの対策を講じて朝鮮の核ミサイルが日本を攻撃する可能性をなくすことが国民の生命と財産を守るうえでより重要なことではないだろうか。
日本や米国、韓国は今回のロケットの打ち上げを弾道ミサイル技術開発の一環としてとらえ、朝鮮に対し「いかなる核実験又は弾道ミサイルの発射もこれ以上実施しないことを要求する」ことをうたった国連安保理決議第1718号に違反するとして、朝鮮を非難している。
中国やロシアは、朝鮮が今回のロケット打ち上げを人工衛星の発射のためだとし、国際海事機関(IMO)や国際民間航空機関(ICAO)に打ち上げの事実を通報し、2009年3月12日付の『朝鮮中央通信』が「月その他の天体を含む宇宙空間の探査および利用における国家活動を律する原則に関する条約」(宇宙条約)と「宇宙空間に打ち上げられた物体の登録に関する条約」(宇宙物体登録条約)に加盟したと報道したように、人工衛星の発射のための国際的手続を踏んだことから、今回の一連の活動を弾道ミサイルの発射実験と解釈することには難色を示している。
今後、国連安保理を舞台に外交戦が繰り広げられていくことになろうが、ここで注意しなければならないのは、朝鮮の今回の打ち上げを非難している日米韓の温度差だ。
米国は4月5日のプラハでの核不拡散に関するオバマ大統領の演説の中で「違反には懲罰があるべきだ」とロケット打ち上げを容認しない姿勢を表明し、ライス国連大使は国連安保理の緊急会議後に「何が打ち上げられたかは問題ではない。打ち上げられた事実自体が決議違反だ」と厳しく非難する発言をしている。しかし、ロケット発射前々日の4月3日に米国のボスワース朝鮮担当特使は記者会見の席で、六カ国協議を中心とした朝鮮との対話を推進していく立場を表明している。対テロ戦争を戦う米国としては国際社会に対しては脅しに屈さない毅然とした姿勢を見せつつも、対話は開いておくというやり方だ。
韓国政府は、「北韓長距離ロケット発射に対する大韓民国政府声明」を外交安保政策調整会議議長・外交通商部の柳明桓長官が発表した。この声明で韓国政府は朝鮮のロケット発射は「国連安保理決議1718号に明白に違反することであり、北韓のどのような主張にも関係なく、朝鮮半島および北東アジアの安全と平和に脅威を与える挑発的行為です」と非難している。同時に「北韓が慢性的な食糧不足を解消することができる莫大な費用をかけて長距離ロケットを発射したことに対して、わが政府と国際社会は大きく失望しています」と朝鮮の行動が国民の生活の質の向上に資するものではないと非難している。しかし、4月3日にロンドンで開かれた韓中首脳会談で、李明博大統領は「南北関係がいろいろな状況になっているけれども、韓国政府は開かれた心で対話する準備ができている」と表明している。ロケット発射という北東アジアにおける安全保障に脅威を与える行動に対して、また朝鮮の国民の生活の質を下げる行動に対して強い態度で非難しつつも、対話の準備ができているという両面性を持った行動となっている。
これに対して、日本政府は3月27日にさまざまな技術的制約がありながらも「弾道ミサイル破壊措置命令」を出した。国内での報道は、ミサイル防衛システムの限界について深く掘り下げるものは少なかった。発射のずいぶん前から「北朝鮮が衛星打ち上げと主張する弾道ミサイルの発射」などの表現が使われ、まるで戦争が起こるような雰囲気が作られてきた。発射後には、自民党の細田博之幹事長が4月6日に国会内で開かれた政府・自民協議で、「人工衛星だろうと何だろうと関係ない。日本を飛び越えたこと自体がわが国に脅威で、人工衛星が軌道に乗っていないとの議論はとらえ方が甘いのではないか」などと日本に対する脅威を強調し、あたかも一方的に攻撃を受けたかのような受け止め方をしているものが多い。そして米韓との最も大きな相違点は、対話についての言及が全くないことだ。
中ロはもとより、米韓も朝鮮との独自の対話ラインを持ち、うまくいっているかどうかは別として朝鮮との対話を行っているのに対し、日本は2006年2月に開かれた第1回日朝包括並行協議以来、拉致問題以外の議題で朝鮮との対話を行っていない。日本政府の拉致問題に偏った政策が現在のような日朝対話不在、外交不在の状況を招いてしまっているといえる。アメリカや中国でさえ発射を思いとどまらせることができなかったことを日本ができたかと言えば難しいのが現実だが、日本の考えを伝えるチャンネルがなかったのは、残念なことだ。
以上のように、米韓は朝鮮を非難しつつも対話を行う準備と戦略、そしてそのチャネルを持っている。しかし、日本は対話について言及できないほど関係が悪化している。今後の六カ国協議においての駆け引きを有利に行うためにも日本は朝鮮との対話を行う準備と戦略、チャネルを用意していく必要がある。「朝鮮なんかと対話をしても意味がない」という声が聞こえてきそうだが、忍耐強く話し合いを進めていく外交を放棄したところで、日本は得るものがない。長く困難な道のりを経て初めて、日本が追求する利益を実現することが可能になるのではないだろうか。
では、日本が追求すべき利益とは何なのか、国民の生命、財産の安全はいうまでもない。それ以外にもいろいろある。それについてはまた別の機会にふれてみたいと思う。
]]>「アリラン」の主要な対象は外国人観光客ではなく、実は、自国民だ。自国民を対象とした教育・宣伝を外国人(や海外同胞、南の人たち)が見ても楽しめるように芸術的に洗練させたものが「アリラン」と言えるだろう。
そういう「官製宣伝劇」は朝鮮半島研究者にとっては大変貴重な教材となる。なぜなら、「アリラン」には現在の朝鮮労働党が考えている世界観が反映されており、朝鮮の現状や政策を分析するときには、その世界観を知っておく必要があるからだ。
朝鮮の視点から朝鮮や周辺諸国、世界を見る視点を養うには、「アリラン」はとてもよい教材だ。
私は朝鮮経済に関心があるので、「アリラン」で経済がどのように紹介されているのかに注目した。その3で紹介した畜産の振興など、「人民生活向上」に関連するものとしては、大豆の増産や種子革命といったおなじみのスローガンがたくさん出てきた。
朝鮮は最近、産業政策で科学技術重視を打ち出しているが、「科学技術-最先端水準に」というスローガンが登場した。その他、IT重視などのスローガンも出てきた。
経済の話が終わった後、出てきたのは朝鮮の対外活動の基本である「自主、平和、親善」だった。この方針は1992年の憲法改正で、それ以前の「国家は、マルクス・レーニン主義及びプロレタリア国際主義原則で社会主義国と団結」するというものから大幅に変更されたものだ。
もちろん朝鮮の人々がとらえる「自主、平和、親善」の含意と国外の人々がとらえるそれには大きな差違があることも事実だ。国内向けには「自主」の固守を主張し、外国向けには「平和、親善」を強調するイメージ戦略があるのかもしれない。しかし私はソ連・東欧の社会主義政権が崩壊した直後の1992年に朝鮮が20年ぶりの憲法改正をして対外活動原則を変更した事実を重く受け止めたいと思っている。すでにEUの国々はフランス以外、朝鮮と国交正常化をしている。
マスゲームと芸術公演「アリラン」の会場となる「綾羅島メーデースタジアム」
訪問期間中、マスゲームと芸術公演を取り混ぜた「アリラン」を観にいった。以前「アリラン」を見たのは、2005年だった。3年たってから観ると、毎年少しずつ芸術講演の比重が高まってきていることを感じた。
最初のころは、参加者の多くが青少年(学生)中心だったのが、大人の参加者の比重が多くなってきたように思う。今回も会場の綾羅島メーデースタジアムに行くと、準備を終えて会場に向かう参加者たちが行進している姿を見ることができた。
今年は、上の写真のように、大人による競演も多く、また演技に見入ってしまって写真が撮れなかったが、アクロバティックな出し物も増えていた。北京オリンピックの開会式の時に聖火に点火した李寧(Li Ning)さんのように、空中をワイヤーに吊られて舞う出し物もあった。
とはいえ、物語の中には朝鮮の建国から現代までの歴史と今後の朝鮮の姿が、現在の朝鮮の観点から整理されて入っていることに変わりはない。国民に対する思想教育の一環としての「アリラン」の姿は、朝鮮の視点から近現代史と朝鮮の姿、そして朝鮮の未来を考えるうえでのまたとない教材ともいえる。
朝鮮の経済政策についての場面を見ていると、朝鮮が現状をどう把握し、どのような発展を目指し、そのための方法は何なのかについて、知ることができるようになっている。本来、「アリラン」はそのための宣伝手段なので当然だが、朝鮮の人々がどのような教育を受け、世界情勢をどのように判断しているのかを知るうえで、そして朝鮮に流れる「雰囲気」を感じるうえで、朝鮮を研究対象にしている研究者にとっても有用なツールだと思った。
夏の暑さも一息ついたものの、晴天が続き暑かった平壌では、路上の簡易売店でアイスクリームやサイダー、清涼飲料水などがそれなりに売れているようだった。
このような簡易売店は、常設の店舗に比べると埃っぽい街頭にあったりして衛生状態などが少し劣ることもあるが、全体的に中国よりはずっときれいで、韓国と同じくらい、日本のお祭りの屋台と比べてもそれほど不潔だとは思わない。ただ、売っているものの品質に関しては、よく吟味する必要があるかもしれない。サイダーやアイスバーなど、瓶に入っていたり個別包装になっているものはまず大丈夫だが、パンや揚げ菓子などは直射日光にさらされた結果、酸化が進んでいる可能性もあり、必ずチェックしたから買う方がいい。
平壌の順安空港に到着後、前回の訪問時にも見た新しいランプバスがわれわれをターミナルまで連れて行ってくれた。小さな変化ではあるが、空港内の案内表示がピクトグラムを多用したものに変更されるなど、全体的に「国際標準」を目指した変更が行われている。
市内までの道は新しく舗装し直されている部分が多かった。市内に入ると、祝賀ムードを盛り上げるためかさまざまな趣向を凝らした看板や旗が飾られていた。
今回の祝賀行事の中では、9月8日に平壌体育館で開かれた「中央報告大会」や9日に金日成広場で行われた民間武力である労農赤衛隊の行進と群衆集会とともに、マスゲーム「繁栄あれ、わが祖国」と「アリラン」が特に印象深かった(多くの大会と「繁栄あれ、わが祖国」には、カメラを持って行けなかったので写真はない)。
マスゲームは以前の「アリラン」のように、学生が主体のどちらかというと堅めの印象を与えるものだった。多くの学生が参加しているが、勉強に差し支えないか心配で周囲の人にたずねると、「体力的にも、精神的にも鍛錬になるので、問題ない」という返事が一様に返ってきた。ただ、「一部のエリート校の学生は参加しない」という返事もあった。
]]>同江市は松花江、黒龍江の河川交通の要衝でもあり、ハルビンから山形県・酒田市を結ぶ「東方水上シルクロード」が2004年までここを通過し、日本まで荷物を運んでいた。また、最近では対岸のロシア・ユダヤ人自治州ニジニェレーニンスコエ村とを結ぶ道路・鉄道両用橋の建設が推進されている。鉄道も現在のところ貨物だけではあるが、同江まで延伸されており、近い将来、中ロ間の物流拠点となることが期待されている。
同江のバスターミナルは、黒龍江省佳木斯市を中心とする周辺地域だけでなく、冬季は氷結する松花江(ウスリー川)を通って、対岸のロシアへ向かうバスの出発地点ともなっている。市内にはまだそれほど高い建物はないが、中ロ大橋の完成などを見込んで貿易が盛んになることからオフィスビルの建設などが進んでいた。
川が氷結しない春~秋は、川幅の狭いところに浮き橋をかけて国境の通路としている。
同江は黒龍江・同江市から海南省・三亜市に至る延長5700キロの同三公路の起点になっている。中国らしい、スケールの大きい話であるが、馬鹿にしてはいけない。同江~ハルビン~長春~瀋陽~大連(海上)煙台~青島~連雲港~上海~寧波~福州~深圳~広州~湛江~海安(海上)海口~三亜の多くの部分が立派な高速道路なのだ(黒竜江省内でも同江~佳木斯間はそれほどでもないが、そこから先は片側2車線の高速だ)。
現在建設プロジェクトが推進中の中ロ大橋もこのような大規模な物流ネットワーク整備の一環として行われている。中国のスケールの大きい話が周辺国との経済関係を拡大するための戦略的なプロジェクトとして結実しつつあることを頭に入れて話をしないといけない時代になっている。
中国・遼寧省丹東市と朝鮮・平安北道新義州市を結ぶ新たな橋も、中国側は中朝間を連結するハイウェイ・ネットワークの整備という観点から設計を行っている。現在、朝鮮側はそこまでのスペックで橋を建設したいとは考えていないようだが、朝鮮の置かれた国際環境に変化があれば、深圳湾大橋のような立派な橋が架かることになるのだろう。
立派な税関の建物に入っていくと、入国審査場があった。船から下りた人数と旅行社が提出した名簿の人数を照合しているのか、入国までには少し待たされた。
入国手続が開始されたので、手続をしようと思ったその時、中国側の旅行社の係とおぼしき中国人が「お前は入国してはだめだ。戻ってこい。」と身振りで指示される。後から思えば無視して入国審査を済ませてしまえば良かったのだが、件の係の所に行くと、「ちょっと待て」と言われ、その係は入国審査の事務所に入っていった。
数分すると、入国審査官の上官とおぼしきおじさんをともなって出てきた。そのおじさんは私に「パスポートを出せ」といい、パスポートを受け取るとどこかへ行ってしまった。パスポートがないので入国審査を受けられずにぼーっとしていると、入国審査官から「早く審査を受けろ」と促される。「お前の仲間がパスポート持って行ってしまった」というと、何も言わなくなった。
おじさんはなかなか戻ってこない。10分ほどしただろうか、おじさんが戻ってきて事務所に来い、と言う。別室審査が始まるのか(アメリカでは何回かあるが、中国では初めて)と緊張が走る。
別室では、おじさんの他に何人かの中年男性がたむろしてお茶を飲んでいた。私が入っていくと、にこにこしながらも鋭い視線を向けてくる。とはいえ、田舎の人の善良な顔ではあった。
ここで聞かれたのは、(1)お前は元中国人ではないのか、(2)なぜここから入国するのか、(3)入国した後どこに行くのかであった。(1)は生まれてからずっと日本人だ、(2)はハルビンから新潟行きの飛行機で帰国するため、(3)はハルビン市なのだが、ハバロフスクから日本に直接帰らないのがよほど不審なようだ。
それほど険悪な雰囲気ではないので、こちらからも質問をする。(1)日本人はこの口岸によく来るか、(2)ここは国家1類口岸(第三国人も通過可能)なのに、なぜ入国にこんな時間がかかるのか。答えは、(1)昨年、何人かの日本人がやってきた。しかし、即日ハバロフスクに帰る観光客であった。今年撫遠に来る日本人はお前が初めてで、ここから入国して別の所に行く日本人は見たことがない、(2)別に問題はないけれど、ちょっと待ってね、であった。
結局、ロシアに行く前にハルビンで参加したハルビン商談会のIDカードを見せたり、カメラで撮影した内容を「任意で」見せてあげたりしているうちに、もう「行っていいよ」ということになった。この時点で45分ほど経過していた。おそらくこの間にどこか(おそらく上級の部署に)に電話をして、入国させてもいいかどうかの確認をしていたのだろう。
入国審査はものの1分で終わり、税関検査も紳士的に検査をして2分で終わった。入国管理と税関の職員が2人で建物の前まで見送ってくれたのが印象的だった。
後から考えると私の中国ビザは180日の滞在が可能なものだったので、このまま入国させるとオリンピック期間中もずっと滞在ができる。ロシアから船に乗って撫遠くんだりまで来る怪しい日本人には「法輪講」や「テロリスト」の疑いがかけられたのだろう。
このようなトラブルがあった以上、この小さな街で市場の写真を撮ったり、あちこちでお店を冷やかしたりするとスパイ容疑までかけられかねないので、この街を離れることにする(私と接触した人に迷惑がかかるので)。
税関の建物からタクシーに乗り、バスターミナルに行く。
ちょうど同江行きのバスが発車するところだったので、きっぷを買い、乗り込む。同江には知り合いの友人がいるので、その彼を訪問することにしていた。
バスターミナルを発車すると、バスは小さな街をすぐに抜け出て、片側1車線のコンクリート舗装の道路をひたすら走り続ける。
道の両側には、よく手入れされた、真っ黒い肥沃な大地が広がる。見渡すかぎりの畑と田んぼが続いていく様子に圧倒される。ロシア国境の辺境まで耕されている。ロシアでは荒れ地や原野が目立つが、中国に入ると目に入るものは耕地にかわる。
同江までの3時間半ほどの間、肥沃な大地の中をバスは走り続けた。東北振興政策の黒龍江省の重点のひとつが農業に置かれていることは知識としては知ってはいた。この3時間半の間に見た風景によって、黒龍江省における農業の重要性は単なる経済振興の問題に止まらず、中国13億の民の生存に関連する重要な問題だと思うようになった。
旅行社で買った切符に記載された集合時刻(本来は撫遠ツアーの集合時刻)に船着き場に行く。旅行社で切符を見せると、顔を覚えていたのか英語で「少し待ってね」と言われる。
旅行社のコンテナハウスの前で待つこと約30分、ツアーガイドとおぼしき人がやってきてロシア語で何か話し出す。コンテナハウスの前で待っていたロシア人が一斉に乗り場に向かうので、出発だと思いコンテナハウスを見ると旅行社の係員が頷いている。
ツアーのロシア人の後について、船着き場に入る。改札口のような場所があり、一人一人に乗船省が手渡される。船は何隻か出発するので、別の船に乗ってしまわないようにするためだろう。
出入国施設は埠頭の先の浮き桟橋に設置されている。税関検査(出国時はほとんどフリーパス)と出入国審査(内務省のカウンターは無人だった)があり、船ごとに審査を行うために、前のグループが審査を受ける間、待機する。
われわれの船の審査が始まった。ロシア人の出国はそれほど時間がかからないが、中国人は念入りに審査をされている。日本人はどれくらいの時間がかかるのだろう。
審査の番が回ってきた。ブラゴベシチェンスクの入国の時には、増補部分の有効性確認のためにずいぶん待たされたので、今回もそういう目に遭うかもしれないと思うと少し緊張する。
結局、審査は3分ほどで終わった。特に調べるべきことはなかったようで、端末を操作して何かを入力したあと、少し待ってから出国のスタンプを押してくれた。おそらくロシアでは速いほうに入るのだろう。
日本(日本人と特別永住者は速いが、外国人には評判の悪い指紋採取と写真撮影があるのでかなり時間がかかる。アメリカやイギリス並みにいやな感じだと思う)や韓国、香港、台湾、中国それに日本のパスポートを見るとほとんど何もしないでスタンプを押してくれるフランスやイタリアなどの迅速な審査(ちなみにドイツはしかめっ面で顔の確認はする。イギリスは人によっては結構時間がかかる。アメリカは指紋採取と写真撮影があるので速くしても時間がかかる)になれていると、これくらいのスピードでも遅く感じるが、それでも時間がかかると悪評が高かったソ連時代よりはずいぶんと速くなったのだろう。
出国審査終了後、同じ船に乗る人たちの出国審査の終了を待ち、乗船する。船はロシア船籍でロシア製の水中翼船だった。乗船後、しばらくして船はゆっくりとハバロフスクの河港を離れた。
河港を出ると、船は次第に速度を上げながらウスリー川(松花江)を遡上していく。ウスリー川の本流はロシア領側にあるので、両岸はまだロシア領だろう。船はかなりのスピードで走っている。途中で巨大な送電鉄塔が見えてきた。ということはまだロシア領内を通過していることになるのだろう。
出発から約1時間20分ほどが経過し、船が速度を落とし始めた。対岸を見ると緑色の耕作地が見える。中ロ国境でどちらが中国でどちらがロシアかを見極める簡単な方法として、工作されていればそこは中国、というのがある。中国の東北部は巨大だが、平地はほとんどが耕作地になっている。ロシアは一部に耕作地があるものの、国境地帯は荒れ地か森林地帯が多い。
船はゆっくりと撫遠の船着き場に入っていく。岸には五星紅旗がはためく建物がある。上陸してみると「撫遠口岸」と書いてある。辺境の国境ではあるが、大変立派な建物だ。この後、とんだハプニングに見舞われることを知らないまま、税関の建物へと進んでいった。
]]>ハバロフスクは極東の首都ともいえる場所で、1858年に東進してきたロシア軍の監視所ができたのが街の歴史の始まりとされている。ウラジオストクができたのが1860年に締結した北京条約の後だったので、こちらの方が歴史は古い。
街のメインストリートになるのがレーニン広場とアムール川沿いの教会広場を結ぶムラヴィヨフ・アムールスキ-通り。ショッピングストリートにもなっていて、国際的なブランドショップも並んでいる。ウラジオのどこかくたびれた雰囲気に比べて、ハバロフスクにはヨーロッパの街独特の小綺麗さがあるように感じた。道行く人の雰囲気もハバロフスクが極東では一番ウラジオストクやウスリースクよりも洗練されているように思う。
ハバロフスク駅前には、この地を探検した17世紀のロシアの探検家エロフェイ・ハバロフの銅像がある。駅前はバスや路面電車のターミナルとなっており、ひっきりなしに人が行き来する。
初夏とはいえ、すでに気温が30度を超える日もある6月のハバロフスクでは、人々は真夏の格好になっていた。ホテル部屋の冷房がこんなにありがたいと感じたのは、久しぶりだった。それも東南アジアではなく、こんな北でそういうことになるとはあまり考えていなかった。大陸性気候というのはとても大味だ。そこに住む人には、それに翻弄されないような精神力が備わるのだろう。
ハバロフスクからは中国・黒龍江省の東北部にある撫遠へと船で出国することにした。このルートは外国人にも開放されているルートだが、ほとんどのお客はハバロフスクから日帰り観光をするロシア人だ。そのため、船の料金は、ガイド料込みのツアー価格で設定されており、それが約3250ルーブル(約15000円)。
船着き場付近の旅行社(コンテナハウスに入っている)を訪れ、片道運賃を計算してもらう。パスポートを見せ、中国のビザがあることを確認され(日本人はノービザ滞在できるのだが、信じてもらえないケースが多々あるので、私はマルチプルのビザを取得している)、旅行社の係員がどこかに電話をしていた。結局、1800ルーブル(約8100円)となった。お金を払い、切符とはいえない(ツアーの一部参加のようになるので)メモを渡され、切符の購入は15分ほどで終わった。
黒河からブラゴベシチェンスクへの出国は、大黒河島国際商貿城の隣にある黒河口岸で行う。中国の他の口岸と同じく、税関検査を済ました後、出国審査となる。
日本人は中国の辺境に行ってもたくさん見かけるが、それはどうも南部や西部が主のようで、黒龍江省からロシアに抜ける国境にはそれほどたくさんいないようだ。というのは、黒河からの出国で、パスポートの増補部分の検査のために30分ほど待たされたからだ。
日本のパスポートは、査証欄(スタンプを押すところ)がいっぱいになると、1回にかぎり追加のスタンプ欄をひっつけてもらうことができる。これを増補という。これはパスポートに増補紙をテープで貼り付け、貼り付けたところに割印(エンボス)を行う。この貼り付けは手動で行われ、しかもパスポートの表紙は増補部分の余裕をもたずに作られているので、増補部分は表紙からはみ出してしまう。これが何となく、偽造パスポートのように見られるのだ。
日本人が多いところだと、増補してあっても何ら問題なく国境を通過できるのだが、初めて増補したパスポートを見る場合、係官によってはパスポートの有効性について疑念を持つ人もいるようだ。ここ黒河では、まさにそのようなケースにあたり、パスポートが真正な物かどうか検査に回され、30分ほど待たされた。
出国審査後、乗船となるのだが、実は黒河口岸の前には、ロシア行きの渡し船の切符を売る場所がない。なので、切符をもたないまま、乗船口につながる通路まできてしまった。警備をしていた辺境警備隊の係官に「切符がないのだけれど」と伝えると、「ちょっと待っていろ」といって、どこかに行ってしまった。5分ほど待っただろうか、件の係官がやってきて「これが切符です、100元」と言われた。ロシア語で書かれたその切符がどういうルートで手に入れられたのかはわからないが、妥当な金額だったし、礼を言ってお金を払った。
船に乗って40分ほど出航を待った。街の中よりは川の上を流れる風は涼しいとはいえ、暑い中待たされて閉口した。出航すると、船はゆっくりと黒龍江を渡りだす。15分ほどで対岸の埠頭に到着した。
ロシア側の埠頭は、高い堤防の下にある。荷物を持って、30段ほどの階段を上がる。上がりきったところに広場があり、出入国審査と税関検査(検疫も)をする建物がある。建物の中に入ると、エアコンが効いていた。さすがロシアはヨーロッパだけある。
出入国カードをもらい、記入する。列に並んで5分、順番が来てパスポートを渡すと、中国のパスポートだと思っていた係官の表情が困惑の表情になる。電話をして別の係官を呼びパスポートを虫眼鏡で見たり、ブラックライトにかざしたりして真正旅券かどうかの検査をしているようだった。結局係官だけでは決められず、上官を呼び、別室でパスポートの鑑定をすることになったようだった。「ここで待っていろ」と身振りと簡単な英語で指示され、入国審査場でパスポートが帰ってくるのを待った。
30分以上待っただろうか、パスポートが本物であることが証明され、審査が開始された。今度は割合スピーディーに審査が進む。審査が終わり、スタンプの押されたパスポートを受け取ると、係官が「お疲れ様でした」と言いたいのか、にっこり微笑んでいた。
その後、ロシアではおきまりのイミグレーションによる(出入国審査は国境警備隊が行う。イミグレーションは内務省)パスポートのチェックと登録が行われ、その後に税関検査。買い出し客が多い中でカバン1つだけなので、すぐに検査は終わり、建物を後にした。
タクシーに乗ろうかと思いかけたその時、埠頭前にバス停があり、何人かの人が待っているのを見つけた。おそらく街の中心に行くだろうから、バスに乗って街に行くのも悪くはないと思い、バスを待った。
数分後に来たのは、バスと言うよりは乗り合いタクシーのようなバンだった。急いで乗り込んで、行き先として「ホテル」と言うと、運転手は頷いた。おそらく近くまで行ってくれるのだろう。
数分歩くと、何となくホテルの雰囲気を漂わせる建物が見えてきた。看板には「ドルジバ」と書いてある。予約はないが、とりあえず中に入り、宿泊できるか交渉してみることにする。
ホテルはほぼ満員で、4000ルーブルの部屋しかなかった。しかし他のホテルがどこにあるかわからない以上、ハイシーズンである6月に部屋を押さえておかなければ泊まるところがなくなるかもしれないという恐怖感もあるので、地方都市のそれほど高級とはいえないホテルだが、その値段で泊まることにした。
高級な部屋だけあって、ホテルからはウスリー川(黒龍江)がよく見える。対岸の黒河の街も少し遠いが見えた。黒河の街からこのホテルまで3キロくらいしか離れていないが、渡ってくるのに3時間ほどを要した。北東アジアでは国境越えは平均して数時間かかると見ておかないといけない。これが同じ中国の隣国でも、ベトナムとかラオスだともう少し迅速にことが運ぶ。
国境通過にかかる時間は、その国や地域の緊張や矛盾の皮膚感覚(実際の緊張や矛盾の度合いではなく)と関連があると思う。その意味で北東アジアは、清とロシアの勢力争いや日清・日露の戦争、満州国の存在、東西冷戦や中ソ対立といった、世界的な大国間の緊張の中に長い間あった地域で、その名残が色濃く残っている地域だということと、もともと国境自体が人口が少なく、頻繁な往来がなかった所に設定されたので、皮膚感覚として国境の敷居が高いのだろう。
ブラゴベシチェンスクで1泊した後、ハバロフスクに向かう。市内から空港までは約25キロ。ホテルから空港までのタクシー代は400ルーブルだった。ウラジオストクで、1キロだけ乗っても100ルーブル以上とられた経験があるので、空港までのタクシー代がいくらになるか気になって仕方なかった。降りるときに足りないと言われることを覚悟で500ルーブル渡すと、100ルーブルおつりを返してくれた。ウスリースクもそうだが、田舎の街のロシア人は正直な人が多いようだ(つまりウラジオが例外ということか)。
ハルビンでの会議の後、空路で中ロ国境の街、黒河入りした。
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ハルビンから黒河までは約1時間。中国南方航空(北方分公司)のA320で快適なフライトだった。黒河空港到着後、荷物を受け取り、ターミナルビルから出る。空港バスを探したが、どうもないようだ。
タクシーの運転手が近づいてくる。「乗らないのか」と尋ねてくるが、とりあえず「乗らない」と答え、バスを探す。しかし、バスはない。仕方がないので、タクシーとの値段交渉に入る。言い値は50元、少し高い。乗る、乗らない、街まで歩いていく(20キロくらいある)を繰り返し、25元まで下がった。少し安すぎるので、後で値段が上がるかも知れない(実際そうなった)と思いながらタクシーに乗り、市内のホテルに向かう。
空港から市内までは、片側1車線の立派な舗装道路。車がほとんど通らないので、15分ほどで街の入り口までやってきた。道路工事で舗装がはがしてあるところを、濛々たる土ぼこりの中を進む。窓を閉めても、隙間から埃が入ってきて、全身土ぼこりでコーティングされてしまった。
散歩の次は、食事。36度の酷暑の中、レストランを探す。黒龍江(ウスリー川)からそれほど遠くないところに、割合清潔な感じの中国料理店があった。店に入ると、ロシア人のお客さんも多い。
この店に限らず、黒河市内の比較的こぎれいな飲食店にはロシア人がたくさんいた。ケンタッキー・フライドチキンにもロシア語で注文できるカウンターがあった。田舎町の黒河には、ロシア人が清潔だと感じる飲食店はそれほど多くはないのだろう。
売っているものは食品、日用雑貨、衣類、自動車用品、DIY用品などさまざまで値段もそれほど高くはないようだった。私は中国人に見えるので、あちこち見て回ると、同業者の敵情調査に思われるようで、あちこちから鋭い視線が飛んできた。
旧ソ連の社会主義政権が崩壊したころは、中国からロシアへ商人が出かけていって、ブラゴベシチェンスクが中ロの民間貿易の中心になったこともあったようだ。
現在はロシア人の買い物客が圧倒的に多く、中国人は若干の商人が往復しているようだ。ロシアも中国も国境の行き来が盛んになるのを手放しでよろこんでいるわけではない側面もあるようだ。
中ソ対立が深刻だったころ、黒河は最前線で、いつソ連の攻撃を受けるかわからないところだった(これは吉林省の琿春も同じ)。それがソ連の社会主義政権崩壊後は、一転して中ロ間の貿易の中心となった。黒河は1858年に清とロシアが締結したアイグン(璦琿)条約が結ばれた地だ。国際関係を考えるときには、5年、10年といった短期の歴史だけでなく、数十年~100年の中期的な歴史、それ以上の長期的な歴史をも考えないといけないなと、黒河の街を歩きながら考えた。
]]>バスターミナルには、国内バスと国際バスの両方が発着する。中国行きの国際バスはバスターミナルの建物の裏側から発着する。すでにハルビン行き国際バスと延吉行き、綏芬河行きのバスが到着していた。
ハルビン行き国際バスは、この地区で言うと幹線にあたる路線だ。中国製の大型バスで設備もよさそうだった。
延吉行きの国際バスはというと、中型バスで、車両性能も乗り心地も一段劣る。ロシアのバス(月・水・金発)は韓国製の中古バスで、もう少し良いらしい。
バスは定刻を5分ほど過ぎてバスターミナルを出発した。市内を抜けてウラジオストクに向かう連邦道路に入る。途中でスラビヤンカ方面に向かう道に分岐し、スラビヤンカ方面に向かう。途中、主だった町に停車しながら、スラビヤンカ、クラスキノを経由して、琿春に向かった。
クラスキノでは休憩のために、商店の前でしばし停車。ここで昼食用にピロシキやパンを調達する。配達されてきたばかりのピロシキはほのかに温かく、ふわふわだった。
クラスキノの街を出て、中国国境へと向かう道に入る。周囲は荒涼たる原野。国境を越えるとあたりは一面の耕作地になるので、そのコントラストが国境を越えたことを意識させる。
割合スムーズな出国手続の後、バスはいくつかの関門を経由して中ロ国境へ。中国入国は非常にスムーズ。今回はロシア側で待ち時間40分、手続30分。中国側は待ち時間なし、手続は20分で終わった。
国境の税関を出たところで、買い物目的のロシア人を数名下ろし、バスは琿春の街へと向かう。琿春のバスターミナルで私ともう一人の客以外の全員が降りた。その時、ロシアでは考えられないトラブルが発生した。
何と、このバスの運転手がわれわれ2人に対して、「乗客が2人しかいないバスを運転して延吉まで行くことはできない。国内バスを手配するから乗り換えてくれ」と言い出したのだ。このバスは中国のバスで、バス会社は延吉ではなく、琿春。おそらく延吉までの往復200キロ分の燃料代を節約したいのだろう。
国内バスならともかく、ロシアで高い運賃を払った国際バスの乗客に対して、こういう契約違反をするのかと腹が立った。しかし、中国では資本主義を支えるはずの契約観念や法の支配が社会に流布する前に、社会主義が登場する前に存在した赤裸々な資本主義(決して「赤い資本主義」ではない)が跋扈する社会が出来上がってしまったようだ。
結局、ウスリースク~延吉とウスリースク~琿春の運賃差額100ルーブル(約450円)を取り返す交渉をし、バスを降りた。運転手は「この金をやったんだから、バスの手配はしてやらないぞ」と言ったが、ここはバスターミナル。延吉行きのバスは頻繁に出ている。
バスターミナルに入ると、運良く延吉行きの中型バスの改札をしているところだった。21.5元(約320円)のきっぷを買い、バスに乗り込む。私が乗り込むとバスはすぐに発車した。窓の外を見ると、先ほど降りたバスの運転手が、このバスの運転手に向かって「この客を乗せてやってくれ」と交渉しているではないか。しかし、運転手は同僚の願いもむなしく、空席は途中から乗ってきた乗客のためのものだと厳かに宣言してバスは出発した。
今回の中ロ国境の旅は、久しぶりに初めて訪れる街がある新鮮な旅だった。ロシアの地方都市の人々の暮らしぶりとそこに流れる穏やかな時間と急速に経済発展を遂げる中国の地方都市の少し殺伐とした人々の暮らし、それが国境線をはさんで同時代に共存していることを肌で感じられたのが一番の収穫だったと思う。
]]>翌、月曜日はホテルのチェックアウト時間までにしないといけないことがある。外国人登録だ。土曜日にチェックインした際、このホテルでは外国人登録ができないので2泊しか泊めてあげられないと言われたのだ。
朝食後、オフィスが開いたところで作戦開始。ホテルのフロントに行って、外国人登録をしてくれるように頼んだ。ところが、ホテルでは外国人登録はできないとの一点張り。何か他に方法はないのかと尋ねると、フロントの係員は警備員を呼んだ。どうも、私をどこかに案内しろと言っているようだった。
警備員に案内された向かった先はホテルの事務所。外国人登録をしてやっていいかどうか尋ねている様子。結局、この部屋でも問題は解決せず、別の部屋へ。次に案内されたのは支配人室だった。支配人とおぼしき女性が、「困ったなぁ」という顔をして警備員と話していた。何か名案でも思いついたのか、急に表情が明るくなった。案の定、警備員は私を別の事務所に案内してくれた。
事務所では、英語を話す係員が、「外国人登録手続ができる」と断言した。「ただ、今日中にできるかどうかは分からない」とのこと。翌日出発予定だった私にとっては、それは致命傷となる。「今日できないなら、今日出国しないといけない」と私が言うと、「何とかしてみる」との返答。ところが、登録料金として500ルーブル(約2300円)いるという。これまでロシアのホテルで外国人登録料金を取られたことがなかった私としては衝撃的な宣告であったが、背に腹は代えられないので、500ルーブル払う。その代わり、領収書を作成してもらった(実は、ここはホテルの事務所ではなかったことが後で判明する)。
外国人登録ができるということが分かり、少し安心したが、次にホテルの宿泊期間の延長をしなければならない。警備員に連れられてフロントに戻る。警備員がこれまでの経緯をフロントの係員に話すと、1泊の延長が認められた。前金を払い(カード決済だが)、書類に訂正をしてもらう。
これでとりあえずウスリースクにもう一泊できることになった。次は、ウスリースクを出る足を確保しないといけない。ホテルを出て、バスターミナルに向かう。
バスターミナルで国際バスの切符売り場を探す。延吉行きは国内線の切符を売っているカウンターで販売していた。延吉まで1460ルーブル(約6600円)、高い。延吉からウスリースクまでは300元(約4500円)しないのでロシア発の方が高く設定されている(これはそんなに珍しいことではなく、福岡~釜山のジェットフォイルだって日本発は13000円、釜山発は95000ウォン(ちょっと前までは約9500円、今は約6000円になってしまった)である)。
チケットを手に入れることができ、とりあえず一安心。バスターミナルの近くの惣菜屋で昼食をとった。テイクアウトの惣菜屋さんだが、テーブルがいくつかあり、食べていくこともできる。サラダと魚、パンと紅茶で130ルーブル(約600円)。
昼食後は昼寝。朝から忙しくしたので疲れた。午後4時半、業務終了まで少し余裕を残し、外国人登録をお願いした事務所に行く。
500ルーブルの高額料金のおかげか、外国人登録はもうできていた。担当者と話すと、ここの「旅行会社」では、ビザの招聘状の発行など、いろいろな業務をやっているとのこと。担当者の机上には中露辞典がおいてあった。中国語も話せるとのことだった。結局、ホテルの支配人がホテルの事務所棟に入っている旅行会社を紹介してくれたことが判明した。
外国人登録が済んだので、今度は市内へ。ホテルの近くには(Nekrasova str. 59)日本円を両替できる銀行がある。ウスリースクの他の銀行では日本円の表示が出ていない(ドルとユーロはある。後は日本円か中国元のどちらかの表示がある銀行がちらほら)。ウスリースクまで来ると、日本の影響力は減退し、代わりに中国の影響力が強くなるようだ。
銀行の隣には、Megumiという名前の、日本雑貨を扱うお店があった。シャンプーやリンス、食料品、日用品といろいろな日本の商品が売られていた。値段は当たり前のことだが、日本の2~3倍くらい。100円ショップなどで売っている商品だと4~5倍するものもある。
店内に入ると万引き防止のためか、カバンをロッカーに預けて、その後商品を見ることになる。カードも使えるので、雑貨店というよりは日本商品ショップ、という感じだろうか。インテリアも割合垢抜けていて、おしゃれな感じがした。ロシア極東における日本のイメージはこういう感じなのかな、と思った。中国市場が中国のイメージを代表しているとすると、かなり差があるなと思った。
]]>先ほど行ったウスリースクバスターミナルの筋向かいに市場らしきものがあった。しかし、朝早かったので、まだ開いていなかった。先ほど来た道を引き返し、市内中心部に戻る。
市場にはいろいろな生鮮食料品や加工食品が売られていた。店主の多くは高麗人、すなわち朝鮮系ロシア人のようだった。中国市場が巨大で雑踏の感じがするのに比べて、こちらの市場はこぢんまりとしていた。
初めて本格的なロシアの市場をまわったが、値段は日本に比べて特に安いわけではない。やはり、中国とは物価が全く異なる。この価格差を中国商人が商機と思わないわけがないな、と思った。同時に、デフレが進んだ日本と同じく、価格破壊が起こることによって収入の道が閉ざされる人たちも多くいたのだろうと思った。日本の場合は、それがグローバリゼーションとか規制緩和といった言葉で説明されたが、ロシアではどうだったのだろうか。