2009年4月5日の朝鮮によるロケットの発射で日本がロケットの針路の下となった。ロケットが落下したり、ブースターの切り離しがうまく行かなかったりした場合に日本の陸上に落ちる可能性もわずかながらあった。針路にあたる地方の人々が不安感を持ったのは事実だ。その点で日本にとっては迷惑なロケットだった。

日本がこの迷惑に対して、朝鮮に抗議することは当然のことだと思う(ただ、朝鮮の人々は植民地支配を前後して、日本にもっと大きな被害を受けたと思っているので、この程度の迷惑に対して謝ろうという気は起こらないだろうが)。

日本の報道では今回のロケットを「弾道ミサイル」として、日本に対する軍事的攻撃のように報道したが、日本を射程に入れてすでに配備されているといわれるノドンミサイルと異なり、こちらはミサイルとして利用されたとしても、米国領土を射程に入れることを目的として生産されているものであり、日本に対する脅威はそれほど大きくはない。

今回の日本を標的としたミサイルでもないロケットの発射(日米韓はミサイルと主張するが、国により受け止め方は異なる)によって、日本が高度な軍事的脅威にさらされたかといえばそうではない。日本での朝鮮のロケット発射に対する反応や議論は、日本に対する迷惑に対する怒りと、北東アジアの軍事的緊張を激化させた行動に対する対応、日朝交渉がうまくいかないことに対するいらだちなどがごちゃ混ぜになっている。


では、なぜ朝鮮はロケットを発射したのか。朝鮮が核兵器や弾道ミサイルを開発する最も大きな理由は、米朝関係が正常化されていないためだ。米朝関係が改善され、北東アジアにおける冷戦構造が消滅することこそが朝鮮が望んでいることだ(もちろん、それ以外にもいろいろな目算があろうことは推測できる)。

朝鮮によるロケットの発射は、米国に対する挑発であり、北東アジアの安全保障にとってよい影響を与えないことは明白で、中国やロシアも発射を歓迎しているわけではない。朝鮮は国際的な孤立というリスクをとってロケットを発射したわけだ。朝鮮は懸命に米国の対朝鮮敵視政策の転換と米朝国交正常化、朝鮮戦争休戦協定の平和協定への転換を求めているといえる。

さまざまな報道を総合すると、米国は自国発の世界経済危機への対応、イラク戦争終結への道筋、「テロとの戦い」とアフガニスタン情勢、中東問題、核軍縮の進展と米国が行わなければならない内政上、外交上の課題は多い。その中で、朝鮮半島問題の優先度が政権発足当初よりかなり落ちてきている。そこで、ロケットを発射することにより、この優先度を高めようとしていると言われている。


国内的事情に目をやると、今日、金正日政権第3期目の第12期最高人民会議第1回大会が開かれ、金正日総書記は再び国防委員長に推戴された。経済政策では科学技術、特にITやハイテクを重視し、2012年には「強盛大国の大門を開く」とのスローガンで生産正常化から経済成長路線への離陸を図ろうとしている朝鮮にとって、米国の敵視政策にもかかわらず、独自の技術で第2回目の衛星発射に成功したという実績をアピールすることは、「自力更生」で高い経済目標を達成しなければならない国民に将来への期待を高めさせるという点で必要なことであったと思われる。

そのためか、米国もロシアも衛星の軌道投入は認められない(失敗した)としているにもかかわらず、朝鮮は朝鮮中央通信を通じて、人工衛星の軌道投入が成功したと報じている(中国は自らの論評は行わず、朝鮮の報道を引用する形で、朝鮮のメンツを保っているようだ)。

前回の「光明星1号」(テポドン1号)は1998年8月31日に発射されたが、その直後の9月5日に金正日政権の正式とスタートとなる最高人民会議第10期第1回会議の開催が予定されていた。この会議では1992年の改正以降6年ぶりに憲法改正が行われ、金日成時代の行政システムを改編する大規模な行政改革が行われた。

今回は、厳しい国際情勢の中、大規模な憲法改正など抜本的な指導体系の変更につながる機構改革は行われないであろうが、韓国の宣伝ビラや貿易や親族訪問を通じて中国などから伝えられ、国民の間に噂として広まっているとされる金正日総書記の健康問題など、国民の動揺を抑え、晴れ晴れとした気持ちで新たな最高人民会議を迎えるために打ち上げを行ったと考えられる。


このようなロケットに対し、必要以上の過剰反応で応えることは、逆に朝鮮に対する恐怖心を日本国民に植え付け、このロケットの軍事的脅威を過大に評価させる結果につながる。本当に危険なのは、すでに配備されているといわれるノドンミサイルの方であり、それに搭載可能な核弾頭が開発されることだ。そうなる前に、朝鮮の核放棄を誘導するなり、朝鮮との関係を改善し、攻撃の意思を失わせるなりの対策を講じて朝鮮の核ミサイルが日本を攻撃する可能性をなくすことが国民の生命と財産を守るうえでより重要なことではないだろうか。

2009年4月5日、朝鮮が人工衛星運搬ロケット「銀河2号」を発射し、人工衛星「光明星2号」の軌道投入に成功した、と報じた。ラヂオプレスが伝えた朝鮮中央放送(国内向けの放送)では、衛星管制総合指揮所を訪れた金正日総書記は科学者らに対して「たった一度の打ち上げで人工衛星を軌道に正確に進入させ、われわれの主体的な科学技術の威力を誇示した」と科学者を賞賛し、「宇宙空間の征服と平和的利用の分野において新たな転換をもたらすべきだ」との指導を行ったとのことだ。


日本や米国、韓国は今回のロケットの打ち上げを弾道ミサイル技術開発の一環としてとらえ、朝鮮に対し「いかなる核実験又は弾道ミサイルの発射もこれ以上実施しないことを要求する」ことをうたった国連安保理決議第1718号に違反するとして、朝鮮を非難している。

中国やロシアは、朝鮮が今回のロケット打ち上げを人工衛星の発射のためだとし、国際海事機関(IMO)や国際民間航空機関(ICAO)に打ち上げの事実を通報し、2009年3月12日付の『朝鮮中央通信』が「月その他の天体を含む宇宙空間の探査および利用における国家活動を律する原則に関する条約」(宇宙条約)と「宇宙空間に打ち上げられた物体の登録に関する条約」(宇宙物体登録条約)に加盟したと報道したように、人工衛星の発射のための国際的手続を踏んだことから、今回の一連の活動を弾道ミサイルの発射実験と解釈することには難色を示している。


今後、国連安保理を舞台に外交戦が繰り広げられていくことになろうが、ここで注意しなければならないのは、朝鮮の今回の打ち上げを非難している日米韓の温度差だ。

米国は4月5日のプラハでの核不拡散に関するオバマ大統領の演説の中で「違反には懲罰があるべきだ」とロケット打ち上げを容認しない姿勢を表明し、ライス国連大使は国連安保理の緊急会議後に「何が打ち上げられたかは問題ではない。打ち上げられた事実自体が決議違反だ」と厳しく非難する発言をしている。しかし、ロケット発射前々日の4月3日に米国のボスワース朝鮮担当特使は記者会見の席で、六カ国協議を中心とした朝鮮との対話を推進していく立場を表明している。対テロ戦争を戦う米国としては国際社会に対しては脅しに屈さない毅然とした姿勢を見せつつも、対話は開いておくというやり方だ。

韓国政府は、「北韓長距離ロケット発射に対する大韓民国政府声明」を外交安保政策調整会議議長・外交通商部の柳明桓長官が発表した。この声明で韓国政府は朝鮮のロケット発射は「国連安保理決議1718号に明白に違反することであり、北韓のどのような主張にも関係なく、朝鮮半島および北東アジアの安全と平和に脅威を与える挑発的行為です」と非難している。同時に「北韓が慢性的な食糧不足を解消することができる莫大な費用をかけて長距離ロケットを発射したことに対して、わが政府と国際社会は大きく失望しています」と朝鮮の行動が国民の生活の質の向上に資するものではないと非難している。しかし、4月3日にロンドンで開かれた韓中首脳会談で、李明博大統領は「南北関係がいろいろな状況になっているけれども、韓国政府は開かれた心で対話する準備ができている」と表明している。ロケット発射という北東アジアにおける安全保障に脅威を与える行動に対して、また朝鮮の国民の生活の質を下げる行動に対して強い態度で非難しつつも、対話の準備ができているという両面性を持った行動となっている。

これに対して、日本政府は3月27日にさまざまな技術的制約がありながらも「弾道ミサイル破壊措置命令」を出した。国内での報道は、ミサイル防衛システムの限界について深く掘り下げるものは少なかった。発射のずいぶん前から「北朝鮮が衛星打ち上げと主張する弾道ミサイルの発射」などの表現が使われ、まるで戦争が起こるような雰囲気が作られてきた。発射後には、自民党の細田博之幹事長が4月6日に国会内で開かれた政府・自民協議で、「人工衛星だろうと何だろうと関係ない。日本を飛び越えたこと自体がわが国に脅威で、人工衛星が軌道に乗っていないとの議論はとらえ方が甘いのではないか」などと日本に対する脅威を強調し、あたかも一方的に攻撃を受けたかのような受け止め方をしているものが多い。そして米韓との最も大きな相違点は、対話についての言及が全くないことだ。

中ロはもとより、米韓も朝鮮との独自の対話ラインを持ち、うまくいっているかどうかは別として朝鮮との対話を行っているのに対し、日本は2006年2月に開かれた第1回日朝包括並行協議以来、拉致問題以外の議題で朝鮮との対話を行っていない。日本政府の拉致問題に偏った政策が現在のような日朝対話不在、外交不在の状況を招いてしまっているといえる。アメリカや中国でさえ発射を思いとどまらせることができなかったことを日本ができたかと言えば難しいのが現実だが、日本の考えを伝えるチャンネルがなかったのは、残念なことだ。


以上のように、米韓は朝鮮を非難しつつも対話を行う準備と戦略、そしてそのチャネルを持っている。しかし、日本は対話について言及できないほど関係が悪化している。今後の六カ国協議においての駆け引きを有利に行うためにも日本は朝鮮との対話を行う準備と戦略、チャネルを用意していく必要がある。「朝鮮なんかと対話をしても意味がない」という声が聞こえてきそうだが、忍耐強く話し合いを進めていく外交を放棄したところで、日本は得るものがない。長く困難な道のりを経て初めて、日本が追求する利益を実現することが可能になるのではないだろうか。

では、日本が追求すべき利益とは何なのか、国民の生命、財産の安全はいうまでもない。それ以外にもいろいろある。それについてはまた別の機会にふれてみたいと思う。

集団体操と芸術講演「アリラン」の内容は、朝鮮の現代史から将来の朝鮮の姿までを描くものとなっている。朝鮮労働党の考える歴史観、発展観に基づいて作られた巨大な「官製宣伝劇」と言ってもよいだろう。

「アリラン」の主要な対象は外国人観光客ではなく、実は、自国民だ。自国民を対象とした教育・宣伝を外国人(や海外同胞、南の人たち)が見ても楽しめるように芸術的に洗練させたものが「アリラン」と言えるだろう。

そういう「官製宣伝劇」は朝鮮半島研究者にとっては大変貴重な教材となる。なぜなら、「アリラン」には現在の朝鮮労働党が考えている世界観が反映されており、朝鮮の現状や政策を分析するときには、その世界観を知っておく必要があるからだ。

朝鮮の視点から朝鮮や周辺諸国、世界を見る視点を養うには、「アリラン」はとてもよい教材だ。



私は朝鮮経済に関心があるので、「アリラン」で経済がどのように紹介されているのかに注目した。その3で紹介した畜産の振興など、「人民生活向上」に関連するものとしては、大豆の増産や種子革命といったおなじみのスローガンがたくさん出てきた。


朝鮮は最近、産業政策で科学技術重視を打ち出しているが、「科学技術-最先端水準に」というスローガンが登場した。その他、IT重視などのスローガンも出てきた。



経済の話が終わった後、出てきたのは朝鮮の対外活動の基本である「自主、平和、親善」だった。この方針は1992年の憲法改正で、それ以前の「国家は、マルクス・レーニン主義及びプロレタリア国際主義原則で社会主義国と団結」するというものから大幅に変更されたものだ。



私は「アリラン」が「自主、平和、親善」のスローガンで終わったところに、朝鮮労働党の対外関係改善、特に米国と日本に対する関係改善の熱意を感じた。現実の行動では日本人から見ると好戦的に見えるが、国民に対する教育で「自主、平和、親善」により対外関係が開けていくと示していることに、朝鮮のある種の本音が見えるような気がした。

もちろん朝鮮の人々がとらえる「自主、平和、親善」の含意と国外の人々がとらえるそれには大きな差違があることも事実だ。国内向けには「自主」の固守を主張し、外国向けには「平和、親善」を強調するイメージ戦略があるのかもしれない。しかし私はソ連・東欧の社会主義政権が崩壊した直後の1992年に朝鮮が20年ぶりの憲法改正をして対外活動原則を変更した事実を重く受け止めたいと思っている。すでにEUの国々はフランス以外、朝鮮と国交正常化をしている。





訪問期間中、マスゲームと芸術公演を取り混ぜた「アリラン」を観にいった。以前「アリラン」を見たのは、2005年だった。3年たってから観ると、毎年少しずつ芸術講演の比重が高まってきていることを感じた。


最初のころは、参加者の多くが青少年(学生)中心だったのが、大人の参加者の比重が多くなってきたように思う。今回も会場の綾羅島メーデースタジアムに行くと、準備を終えて会場に向かう参加者たちが行進している姿を見ることができた。



今年は、上の写真のように、大人による競演も多く、また演技に見入ってしまって写真が撮れなかったが、アクロバティックな出し物も増えていた。北京オリンピックの開会式の時に聖火に点火した李寧(Li Ning)さんのように、空中をワイヤーに吊られて舞う出し物もあった。

とはいえ、物語の中には朝鮮の建国から現代までの歴史と今後の朝鮮の姿が、現在の朝鮮の観点から整理されて入っていることに変わりはない。国民に対する思想教育の一環としての「アリラン」の姿は、朝鮮の視点から近現代史と朝鮮の姿、そして朝鮮の未来を考えるうえでのまたとない教材ともいえる。



朝鮮の経済政策についての場面を見ていると、朝鮮が現状をどう把握し、どのような発展を目指し、そのための方法は何なのかについて、知ることができるようになっている。本来、「アリラン」はそのための宣伝手段なので当然だが、朝鮮の人々がどのような教育を受け、世界情勢をどのように判断しているのかを知るうえで、そして朝鮮に流れる「雰囲気」を感じるうえで、朝鮮を研究対象にしている研究者にとっても有用なツールだと思った。

建国60周年を間もなく迎えようとしている平壌は、街に飾られている装飾や祝賀のスローガンがいつもより多く、華やかな雰囲気だった。日本では軍事パレードがどのように行われるかが大きく注目されていたようだが、平壌の人々にとっては、政治的な行事はさておいて、9月9日~11日の3連休が楽しみのようだった。

夏の暑さも一息ついたものの、晴天が続き暑かった平壌では、路上の簡易売店でアイスクリームやサイダー、清涼飲料水などがそれなりに売れているようだった。




2000年の「アリラン」の時に平壌市内に設置され、その後全国に広まった「売台(メーデー)」は、その後もなくなることなく、朝鮮の風景に溶け込んでいる。最初のころは珍しくて写真を撮ったり、何を売っているのか尋ねたりすることが多くなったが、最近はその店のアイスバーの取扱銘柄やアイスバーの溶け具合などが気になる(店によって品質や保存状態に若干のばらつきがあるので)ようになった。

このような簡易売店は、常設の店舗に比べると埃っぽい街頭にあったりして衛生状態などが少し劣ることもあるが、全体的に中国よりはずっときれいで、韓国と同じくらい、日本のお祭りの屋台と比べてもそれほど不潔だとは思わない。ただ、売っているものの品質に関しては、よく吟味する必要があるかもしれない。サイダーやアイスバーなど、瓶に入っていたり個別包装になっているものはまず大丈夫だが、パンや揚げ菓子などは直射日光にさらされた結果、酸化が進んでいる可能性もあり、必ずチェックしたから買う方がいい。



滞在中、平壌サーカスを見学する機会があった。
平壌サーカス劇場は、市内の西方、光復通りにある。
普段サーカスを見ないので、断定はできないが、空中芸では空中後方4回宙返りなどの技が披露され、レベルはかなり高いのではないかと思う。



サーカスに出てくるクマはとても愛嬌があり、ユーモラスな動きをする。動物虐待という風に見る向きもあろうが、平壌ではそういった考え方はまだ一般的ではなく、楽しい出し物としてみんなが見ていた。

2008年9月6日~13日の日程で平壌を訪問した。今回は、朝鮮の学者との交流と建国60周年を祝う各種行事への参加が主目的だった。


平壌の順安空港に到着後、前回の訪問時にも見た新しいランプバスがわれわれをターミナルまで連れて行ってくれた。小さな変化ではあるが、空港内の案内表示がピクトグラムを多用したものに変更されるなど、全体的に「国際標準」を目指した変更が行われている。


市内までの道は新しく舗装し直されている部分が多かった。市内に入ると、祝賀ムードを盛り上げるためかさまざまな趣向を凝らした看板や旗が飾られていた。



今回の祝賀行事の中では、9月8日に平壌体育館で開かれた「中央報告大会」や9日に金日成広場で行われた民間武力である労農赤衛隊の行進と群衆集会とともに、マスゲーム「繁栄あれ、わが祖国」と「アリラン」が特に印象深かった(多くの大会と「繁栄あれ、わが祖国」には、カメラを持って行けなかったので写真はない)。

マスゲームは以前の「アリラン」のように、学生が主体のどちらかというと堅めの印象を与えるものだった。多くの学生が参加しているが、勉強に差し支えないか心配で周囲の人にたずねると、「体力的にも、精神的にも鍛錬になるので、問題ない」という返事が一様に返ってきた。ただ、「一部のエリート校の学生は参加しない」という返事もあった。


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撫遠を出たバスは、約3時間半後、同江のバスターミナルに到着した。同江市は黒龍江省佳木斯市の中にある県級市で、黒龍江(アムール川)と松花江(ウスリー川)が合流する場所に位置するところから、「同江」という名前になった。



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同江市は松花江、黒龍江の河川交通の要衝でもあり、ハルビンから山形県・酒田市を結ぶ「東方水上シルクロード」が2004年までここを通過し、日本まで荷物を運んでいた。また、最近では対岸のロシア・ユダヤ人自治州ニジニェレーニンスコエ村とを結ぶ道路・鉄道両用橋の建設が推進されている。鉄道も現在のところ貨物だけではあるが、同江まで延伸されており、近い将来、中ロ間の物流拠点となることが期待されている。




同江のバスターミナルは、黒龍江省佳木斯市を中心とする周辺地域だけでなく、冬季は氷結する松花江(ウスリー川)を通って、対岸のロシアへ向かうバスの出発地点ともなっている。市内にはまだそれほど高い建物はないが、中ロ大橋の完成などを見込んで貿易が盛んになることからオフィスビルの建設などが進んでいた。




川が氷結しない春~秋は、川幅の狭いところに浮き橋をかけて国境の通路としている。



同江は黒龍江・同江市から海南省・三亜市に至る延長5700キロの同三公路の起点になっている。中国らしい、スケールの大きい話であるが、馬鹿にしてはいけない。同江~ハルビン~長春~瀋陽~大連(海上)煙台~青島~連雲港~上海~寧波~福州~深圳~広州~湛江~海安(海上)海口~三亜の多くの部分が立派な高速道路なのだ(黒竜江省内でも同江~佳木斯間はそれほどでもないが、そこから先は片側2車線の高速だ)。

現在建設プロジェクトが推進中の中ロ大橋もこのような大規模な物流ネットワーク整備の一環として行われている。中国のスケールの大きい話が周辺国との経済関係を拡大するための戦略的なプロジェクトとして結実しつつあることを頭に入れて話をしないといけない時代になっている。


中国・遼寧省丹東市と朝鮮・平安北道新義州市を結ぶ新たな橋も、中国側は中朝間を連結するハイウェイ・ネットワークの整備という観点から設計を行っている。現在、朝鮮側はそこまでのスペックで橋を建設したいとは考えていないようだが、朝鮮の置かれた国際環境に変化があれば、深圳湾大橋のような立派な橋が架かることになるのだろう。

撫遠の河港に上陸後、税関の建物に進んでいく。税関の前はコンクリートの広場になっていて、さわやかな川風が吹き抜けていく。ハバロフスクの空気も良かったが、撫遠の空気は都市のそれではなく、草の香りがした。

立派な税関の建物に入っていくと、入国審査場があった。船から下りた人数と旅行社が提出した名簿の人数を照合しているのか、入国までには少し待たされた。

入国手続が開始されたので、手続をしようと思ったその時、中国側の旅行社の係とおぼしき中国人が「お前は入国してはだめだ。戻ってこい。」と身振りで指示される。後から思えば無視して入国審査を済ませてしまえば良かったのだが、件の係の所に行くと、「ちょっと待て」と言われ、その係は入国審査の事務所に入っていった。

数分すると、入国審査官の上官とおぼしきおじさんをともなって出てきた。そのおじさんは私に「パスポートを出せ」といい、パスポートを受け取るとどこかへ行ってしまった。パスポートがないので入国審査を受けられずにぼーっとしていると、入国審査官から「早く審査を受けろ」と促される。「お前の仲間がパスポート持って行ってしまった」というと、何も言わなくなった。

おじさんはなかなか戻ってこない。10分ほどしただろうか、おじさんが戻ってきて事務所に来い、と言う。別室審査が始まるのか(アメリカでは何回かあるが、中国では初めて)と緊張が走る。

別室では、おじさんの他に何人かの中年男性がたむろしてお茶を飲んでいた。私が入っていくと、にこにこしながらも鋭い視線を向けてくる。とはいえ、田舎の人の善良な顔ではあった。

ここで聞かれたのは、(1)お前は元中国人ではないのか、(2)なぜここから入国するのか、(3)入国した後どこに行くのかであった。(1)は生まれてからずっと日本人だ、(2)はハルビンから新潟行きの飛行機で帰国するため、(3)はハルビン市なのだが、ハバロフスクから日本に直接帰らないのがよほど不審なようだ。

それほど険悪な雰囲気ではないので、こちらからも質問をする。(1)日本人はこの口岸によく来るか、(2)ここは国家1類口岸(第三国人も通過可能)なのに、なぜ入国にこんな時間がかかるのか。答えは、(1)昨年、何人かの日本人がやってきた。しかし、即日ハバロフスクに帰る観光客であった。今年撫遠に来る日本人はお前が初めてで、ここから入国して別の所に行く日本人は見たことがない、(2)別に問題はないけれど、ちょっと待ってね、であった。

結局、ロシアに行く前にハルビンで参加したハルビン商談会のIDカードを見せたり、カメラで撮影した内容を「任意で」見せてあげたりしているうちに、もう「行っていいよ」ということになった。この時点で45分ほど経過していた。おそらくこの間にどこか(おそらく上級の部署に)に電話をして、入国させてもいいかどうかの確認をしていたのだろう。

入国審査はものの1分で終わり、税関検査も紳士的に検査をして2分で終わった。入国管理と税関の職員が2人で建物の前まで見送ってくれたのが印象的だった。

後から考えると私の中国ビザは180日の滞在が可能なものだったので、このまま入国させるとオリンピック期間中もずっと滞在ができる。ロシアから船に乗って撫遠くんだりまで来る怪しい日本人には「法輪講」や「テロリスト」の疑いがかけられたのだろう。

このようなトラブルがあった以上、この小さな街で市場の写真を撮ったり、あちこちでお店を冷やかしたりするとスパイ容疑までかけられかねないので、この街を離れることにする(私と接触した人に迷惑がかかるので)。

税関の建物からタクシーに乗り、バスターミナルに行く。




ちょうど同江行きのバスが発車するところだったので、きっぷを買い、乗り込む。同江には知り合いの友人がいるので、その彼を訪問することにしていた。

バスターミナルを発車すると、バスは小さな街をすぐに抜け出て、片側1車線のコンクリート舗装の道路をひたすら走り続ける。



道の両側には、よく手入れされた、真っ黒い肥沃な大地が広がる。見渡すかぎりの畑と田んぼが続いていく様子に圧倒される。ロシア国境の辺境まで耕されている。ロシアでは荒れ地や原野が目立つが、中国に入ると目に入るものは耕地にかわる。



同江までの3時間半ほどの間、肥沃な大地の中をバスは走り続けた。東北振興政策の黒龍江省の重点のひとつが農業に置かれていることは知識としては知ってはいた。この3時間半の間に見た風景によって、黒龍江省における農業の重要性は単なる経済振興の問題に止まらず、中国13億の民の生存に関連する重要な問題だと思うようになった。

いよいよ、ハバロフスクから中国・黒龍江省・佳木斯市の撫遠鎮へと出発する日がきた。

旅行社で買った切符に記載された集合時刻(本来は撫遠ツアーの集合時刻)に船着き場に行く。旅行社で切符を見せると、顔を覚えていたのか英語で「少し待ってね」と言われる。

旅行社のコンテナハウスの前で待つこと約30分、ツアーガイドとおぼしき人がやってきてロシア語で何か話し出す。コンテナハウスの前で待っていたロシア人が一斉に乗り場に向かうので、出発だと思いコンテナハウスを見ると旅行社の係員が頷いている。

ツアーのロシア人の後について、船着き場に入る。改札口のような場所があり、一人一人に乗船省が手渡される。船は何隻か出発するので、別の船に乗ってしまわないようにするためだろう。

出入国施設は埠頭の先の浮き桟橋に設置されている。税関検査(出国時はほとんどフリーパス)と出入国審査(内務省のカウンターは無人だった)があり、船ごとに審査を行うために、前のグループが審査を受ける間、待機する。

われわれの船の審査が始まった。ロシア人の出国はそれほど時間がかからないが、中国人は念入りに審査をされている。日本人はどれくらいの時間がかかるのだろう。

審査の番が回ってきた。ブラゴベシチェンスクの入国の時には、増補部分の有効性確認のためにずいぶん待たされたので、今回もそういう目に遭うかもしれないと思うと少し緊張する。

結局、審査は3分ほどで終わった。特に調べるべきことはなかったようで、端末を操作して何かを入力したあと、少し待ってから出国のスタンプを押してくれた。おそらくロシアでは速いほうに入るのだろう。

日本(日本人と特別永住者は速いが、外国人には評判の悪い指紋採取と写真撮影があるのでかなり時間がかかる。アメリカやイギリス並みにいやな感じだと思う)や韓国、香港、台湾、中国それに日本のパスポートを見るとほとんど何もしないでスタンプを押してくれるフランスやイタリアなどの迅速な審査(ちなみにドイツはしかめっ面で顔の確認はする。イギリスは人によっては結構時間がかかる。アメリカは指紋採取と写真撮影があるので速くしても時間がかかる)になれていると、これくらいのスピードでも遅く感じるが、それでも時間がかかると悪評が高かったソ連時代よりはずいぶんと速くなったのだろう。

出国審査終了後、同じ船に乗る人たちの出国審査の終了を待ち、乗船する。船はロシア船籍でロシア製の水中翼船だった。乗船後、しばらくして船はゆっくりとハバロフスクの河港を離れた。


河港を出ると、船は次第に速度を上げながらウスリー川(松花江)を遡上していく。ウスリー川の本流はロシア領側にあるので、両岸はまだロシア領だろう。船はかなりのスピードで走っている。途中で巨大な送電鉄塔が見えてきた。ということはまだロシア領内を通過していることになるのだろう。


出発から約1時間20分ほどが経過し、船が速度を落とし始めた。対岸を見ると緑色の耕作地が見える。中ロ国境でどちらが中国でどちらがロシアかを見極める簡単な方法として、工作されていればそこは中国、というのがある。中国の東北部は巨大だが、平地はほとんどが耕作地になっている。ロシアは一部に耕作地があるものの、国境地帯は荒れ地か森林地帯が多い。

船はゆっくりと撫遠の船着き場に入っていく。岸には五星紅旗がはためく建物がある。上陸してみると「撫遠口岸」と書いてある。辺境の国境ではあるが、大変立派な建物だ。この後、とんだハプニングに見舞われることを知らないまま、税関の建物へと進んでいった。


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ブラゴベシチェンスクからハバロフスクへやってきた。

ハバロフスクは極東の首都ともいえる場所で、1858年に東進してきたロシア軍の監視所ができたのが街の歴史の始まりとされている。ウラジオストクができたのが1860年に締結した北京条約の後だったので、こちらの方が歴史は古い。





教会広場にあるのがウスペンスキー教会。スターリン時代に破壊された教会を2001年に再建したもののようだ。どおりで建物が新しい。教会広場からウスリー川を見ると、滔々と流れる川の姿が見事だ。



街のメインストリートになるのがレーニン広場とアムール川沿いの教会広場を結ぶムラヴィヨフ・アムールスキ-通り。ショッピングストリートにもなっていて、国際的なブランドショップも並んでいる。ウラジオのどこかくたびれた雰囲気に比べて、ハバロフスクにはヨーロッパの街独特の小綺麗さがあるように感じた。道行く人の雰囲気もハバロフスクが極東では一番ウラジオストクやウスリースクよりも洗練されているように思う。


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ハバロフスク駅前には、この地を探検した17世紀のロシアの探検家エロフェイ・ハバロフの銅像がある。駅前はバスや路面電車のターミナルとなっており、ひっきりなしに人が行き来する。





初夏とはいえ、すでに気温が30度を超える日もある6月のハバロフスクでは、人々は真夏の格好になっていた。ホテル部屋の冷房がこんなにありがたいと感じたのは、久しぶりだった。それも東南アジアではなく、こんな北でそういうことになるとはあまり考えていなかった。大陸性気候というのはとても大味だ。そこに住む人には、それに翻弄されないような精神力が備わるのだろう。



ハバロフスクからは中国・黒龍江省の東北部にある撫遠へと船で出国することにした。このルートは外国人にも開放されているルートだが、ほとんどのお客はハバロフスクから日帰り観光をするロシア人だ。そのため、船の料金は、ガイド料込みのツアー価格で設定されており、それが約3250ルーブル(約15000円)。




船着き場付近の旅行社(コンテナハウスに入っている)を訪れ、片道運賃を計算してもらう。パスポートを見せ、中国のビザがあることを確認され(日本人はノービザ滞在できるのだが、信じてもらえないケースが多々あるので、私はマルチプルのビザを取得している)、旅行社の係員がどこかに電話をしていた。結局、1800ルーブル(約8100円)となった。お金を払い、切符とはいえない(ツアーの一部参加のようになるので)メモを渡され、切符の購入は15分ほどで終わった。

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