2009年1月アーカイブ

撫遠の河港に上陸後、税関の建物に進んでいく。税関の前はコンクリートの広場になっていて、さわやかな川風が吹き抜けていく。ハバロフスクの空気も良かったが、撫遠の空気は都市のそれではなく、草の香りがした。

立派な税関の建物に入っていくと、入国審査場があった。船から下りた人数と旅行社が提出した名簿の人数を照合しているのか、入国までには少し待たされた。

入国手続が開始されたので、手続をしようと思ったその時、中国側の旅行社の係とおぼしき中国人が「お前は入国してはだめだ。戻ってこい。」と身振りで指示される。後から思えば無視して入国審査を済ませてしまえば良かったのだが、件の係の所に行くと、「ちょっと待て」と言われ、その係は入国審査の事務所に入っていった。

数分すると、入国審査官の上官とおぼしきおじさんをともなって出てきた。そのおじさんは私に「パスポートを出せ」といい、パスポートを受け取るとどこかへ行ってしまった。パスポートがないので入国審査を受けられずにぼーっとしていると、入国審査官から「早く審査を受けろ」と促される。「お前の仲間がパスポート持って行ってしまった」というと、何も言わなくなった。

おじさんはなかなか戻ってこない。10分ほどしただろうか、おじさんが戻ってきて事務所に来い、と言う。別室審査が始まるのか(アメリカでは何回かあるが、中国では初めて)と緊張が走る。

別室では、おじさんの他に何人かの中年男性がたむろしてお茶を飲んでいた。私が入っていくと、にこにこしながらも鋭い視線を向けてくる。とはいえ、田舎の人の善良な顔ではあった。

ここで聞かれたのは、(1)お前は元中国人ではないのか、(2)なぜここから入国するのか、(3)入国した後どこに行くのかであった。(1)は生まれてからずっと日本人だ、(2)はハルビンから新潟行きの飛行機で帰国するため、(3)はハルビン市なのだが、ハバロフスクから日本に直接帰らないのがよほど不審なようだ。

それほど険悪な雰囲気ではないので、こちらからも質問をする。(1)日本人はこの口岸によく来るか、(2)ここは国家1類口岸(第三国人も通過可能)なのに、なぜ入国にこんな時間がかかるのか。答えは、(1)昨年、何人かの日本人がやってきた。しかし、即日ハバロフスクに帰る観光客であった。今年撫遠に来る日本人はお前が初めてで、ここから入国して別の所に行く日本人は見たことがない、(2)別に問題はないけれど、ちょっと待ってね、であった。

結局、ロシアに行く前にハルビンで参加したハルビン商談会のIDカードを見せたり、カメラで撮影した内容を「任意で」見せてあげたりしているうちに、もう「行っていいよ」ということになった。この時点で45分ほど経過していた。おそらくこの間にどこか(おそらく上級の部署に)に電話をして、入国させてもいいかどうかの確認をしていたのだろう。

入国審査はものの1分で終わり、税関検査も紳士的に検査をして2分で終わった。入国管理と税関の職員が2人で建物の前まで見送ってくれたのが印象的だった。

後から考えると私の中国ビザは180日の滞在が可能なものだったので、このまま入国させるとオリンピック期間中もずっと滞在ができる。ロシアから船に乗って撫遠くんだりまで来る怪しい日本人には「法輪講」や「テロリスト」の疑いがかけられたのだろう。

このようなトラブルがあった以上、この小さな街で市場の写真を撮ったり、あちこちでお店を冷やかしたりするとスパイ容疑までかけられかねないので、この街を離れることにする(私と接触した人に迷惑がかかるので)。

税関の建物からタクシーに乗り、バスターミナルに行く。




ちょうど同江行きのバスが発車するところだったので、きっぷを買い、乗り込む。同江には知り合いの友人がいるので、その彼を訪問することにしていた。

バスターミナルを発車すると、バスは小さな街をすぐに抜け出て、片側1車線のコンクリート舗装の道路をひたすら走り続ける。



道の両側には、よく手入れされた、真っ黒い肥沃な大地が広がる。見渡すかぎりの畑と田んぼが続いていく様子に圧倒される。ロシア国境の辺境まで耕されている。ロシアでは荒れ地や原野が目立つが、中国に入ると目に入るものは耕地にかわる。



同江までの3時間半ほどの間、肥沃な大地の中をバスは走り続けた。東北振興政策の黒龍江省の重点のひとつが農業に置かれていることは知識としては知ってはいた。この3時間半の間に見た風景によって、黒龍江省における農業の重要性は単なる経済振興の問題に止まらず、中国13億の民の生存に関連する重要な問題だと思うようになった。

いよいよ、ハバロフスクから中国・黒龍江省・佳木斯市の撫遠鎮へと出発する日がきた。

旅行社で買った切符に記載された集合時刻(本来は撫遠ツアーの集合時刻)に船着き場に行く。旅行社で切符を見せると、顔を覚えていたのか英語で「少し待ってね」と言われる。

旅行社のコンテナハウスの前で待つこと約30分、ツアーガイドとおぼしき人がやってきてロシア語で何か話し出す。コンテナハウスの前で待っていたロシア人が一斉に乗り場に向かうので、出発だと思いコンテナハウスを見ると旅行社の係員が頷いている。

ツアーのロシア人の後について、船着き場に入る。改札口のような場所があり、一人一人に乗船省が手渡される。船は何隻か出発するので、別の船に乗ってしまわないようにするためだろう。

出入国施設は埠頭の先の浮き桟橋に設置されている。税関検査(出国時はほとんどフリーパス)と出入国審査(内務省のカウンターは無人だった)があり、船ごとに審査を行うために、前のグループが審査を受ける間、待機する。

われわれの船の審査が始まった。ロシア人の出国はそれほど時間がかからないが、中国人は念入りに審査をされている。日本人はどれくらいの時間がかかるのだろう。

審査の番が回ってきた。ブラゴベシチェンスクの入国の時には、増補部分の有効性確認のためにずいぶん待たされたので、今回もそういう目に遭うかもしれないと思うと少し緊張する。

結局、審査は3分ほどで終わった。特に調べるべきことはなかったようで、端末を操作して何かを入力したあと、少し待ってから出国のスタンプを押してくれた。おそらくロシアでは速いほうに入るのだろう。

日本(日本人と特別永住者は速いが、外国人には評判の悪い指紋採取と写真撮影があるのでかなり時間がかかる。アメリカやイギリス並みにいやな感じだと思う)や韓国、香港、台湾、中国それに日本のパスポートを見るとほとんど何もしないでスタンプを押してくれるフランスやイタリアなどの迅速な審査(ちなみにドイツはしかめっ面で顔の確認はする。イギリスは人によっては結構時間がかかる。アメリカは指紋採取と写真撮影があるので速くしても時間がかかる)になれていると、これくらいのスピードでも遅く感じるが、それでも時間がかかると悪評が高かったソ連時代よりはずいぶんと速くなったのだろう。

出国審査終了後、同じ船に乗る人たちの出国審査の終了を待ち、乗船する。船はロシア船籍でロシア製の水中翼船だった。乗船後、しばらくして船はゆっくりとハバロフスクの河港を離れた。


河港を出ると、船は次第に速度を上げながらウスリー川(松花江)を遡上していく。ウスリー川の本流はロシア領側にあるので、両岸はまだロシア領だろう。船はかなりのスピードで走っている。途中で巨大な送電鉄塔が見えてきた。ということはまだロシア領内を通過していることになるのだろう。


出発から約1時間20分ほどが経過し、船が速度を落とし始めた。対岸を見ると緑色の耕作地が見える。中ロ国境でどちらが中国でどちらがロシアかを見極める簡単な方法として、工作されていればそこは中国、というのがある。中国の東北部は巨大だが、平地はほとんどが耕作地になっている。ロシアは一部に耕作地があるものの、国境地帯は荒れ地か森林地帯が多い。

船はゆっくりと撫遠の船着き場に入っていく。岸には五星紅旗がはためく建物がある。上陸してみると「撫遠口岸」と書いてある。辺境の国境ではあるが、大変立派な建物だ。この後、とんだハプニングに見舞われることを知らないまま、税関の建物へと進んでいった。


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ブラゴベシチェンスクからハバロフスクへやってきた。

ハバロフスクは極東の首都ともいえる場所で、1858年に東進してきたロシア軍の監視所ができたのが街の歴史の始まりとされている。ウラジオストクができたのが1860年に締結した北京条約の後だったので、こちらの方が歴史は古い。





教会広場にあるのがウスペンスキー教会。スターリン時代に破壊された教会を2001年に再建したもののようだ。どおりで建物が新しい。教会広場からウスリー川を見ると、滔々と流れる川の姿が見事だ。



街のメインストリートになるのがレーニン広場とアムール川沿いの教会広場を結ぶムラヴィヨフ・アムールスキ-通り。ショッピングストリートにもなっていて、国際的なブランドショップも並んでいる。ウラジオのどこかくたびれた雰囲気に比べて、ハバロフスクにはヨーロッパの街独特の小綺麗さがあるように感じた。道行く人の雰囲気もハバロフスクが極東では一番ウラジオストクやウスリースクよりも洗練されているように思う。


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ハバロフスク駅前には、この地を探検した17世紀のロシアの探検家エロフェイ・ハバロフの銅像がある。駅前はバスや路面電車のターミナルとなっており、ひっきりなしに人が行き来する。





初夏とはいえ、すでに気温が30度を超える日もある6月のハバロフスクでは、人々は真夏の格好になっていた。ホテル部屋の冷房がこんなにありがたいと感じたのは、久しぶりだった。それも東南アジアではなく、こんな北でそういうことになるとはあまり考えていなかった。大陸性気候というのはとても大味だ。そこに住む人には、それに翻弄されないような精神力が備わるのだろう。



ハバロフスクからは中国・黒龍江省の東北部にある撫遠へと船で出国することにした。このルートは外国人にも開放されているルートだが、ほとんどのお客はハバロフスクから日帰り観光をするロシア人だ。そのため、船の料金は、ガイド料込みのツアー価格で設定されており、それが約3250ルーブル(約15000円)。




船着き場付近の旅行社(コンテナハウスに入っている)を訪れ、片道運賃を計算してもらう。パスポートを見せ、中国のビザがあることを確認され(日本人はノービザ滞在できるのだが、信じてもらえないケースが多々あるので、私はマルチプルのビザを取得している)、旅行社の係員がどこかに電話をしていた。結局、1800ルーブル(約8100円)となった。お金を払い、切符とはいえない(ツアーの一部参加のようになるので)メモを渡され、切符の購入は15分ほどで終わった。

中国・黒龍江省黒河からロシア・アムール州ブラゴベシチェンスクまでの距離はわずか700メートルほどだ。冬は黒龍江(アムール川)が結氷するので、そこを車が走るので、陸路での移動が可能だが、結氷期以外は船での往来となる。

黒河からブラゴベシチェンスクへの出国は、大黒河島国際商貿城の隣にある黒河口岸で行う。中国の他の口岸と同じく、税関検査を済ました後、出国審査となる。

日本人は中国の辺境に行ってもたくさん見かけるが、それはどうも南部や西部が主のようで、黒龍江省からロシアに抜ける国境にはそれほどたくさんいないようだ。というのは、黒河からの出国で、パスポートの増補部分の検査のために30分ほど待たされたからだ。

日本のパスポートは、査証欄(スタンプを押すところ)がいっぱいになると、1回にかぎり追加のスタンプ欄をひっつけてもらうことができる。これを増補という。これはパスポートに増補紙をテープで貼り付け、貼り付けたところに割印(エンボス)を行う。この貼り付けは手動で行われ、しかもパスポートの表紙は増補部分の余裕をもたずに作られているので、増補部分は表紙からはみ出してしまう。これが何となく、偽造パスポートのように見られるのだ。

日本人が多いところだと、増補してあっても何ら問題なく国境を通過できるのだが、初めて増補したパスポートを見る場合、係官によってはパスポートの有効性について疑念を持つ人もいるようだ。ここ黒河では、まさにそのようなケースにあたり、パスポートが真正な物かどうか検査に回され、30分ほど待たされた。

出国審査後、乗船となるのだが、実は黒河口岸の前には、ロシア行きの渡し船の切符を売る場所がない。なので、切符をもたないまま、乗船口につながる通路まできてしまった。警備をしていた辺境警備隊の係官に「切符がないのだけれど」と伝えると、「ちょっと待っていろ」といって、どこかに行ってしまった。5分ほど待っただろうか、件の係官がやってきて「これが切符です、100元」と言われた。ロシア語で書かれたその切符がどういうルートで手に入れられたのかはわからないが、妥当な金額だったし、礼を言ってお金を払った。

船に乗って40分ほど出航を待った。街の中よりは川の上を流れる風は涼しいとはいえ、暑い中待たされて閉口した。出航すると、船はゆっくりと黒龍江を渡りだす。15分ほどで対岸の埠頭に到着した。

ロシア側の埠頭は、高い堤防の下にある。荷物を持って、30段ほどの階段を上がる。上がりきったところに広場があり、出入国審査と税関検査(検疫も)をする建物がある。建物の中に入ると、エアコンが効いていた。さすがロシアはヨーロッパだけある。

出入国カードをもらい、記入する。列に並んで5分、順番が来てパスポートを渡すと、中国のパスポートだと思っていた係官の表情が困惑の表情になる。電話をして別の係官を呼びパスポートを虫眼鏡で見たり、ブラックライトにかざしたりして真正旅券かどうかの検査をしているようだった。結局係官だけでは決められず、上官を呼び、別室でパスポートの鑑定をすることになったようだった。「ここで待っていろ」と身振りと簡単な英語で指示され、入国審査場でパスポートが帰ってくるのを待った。

30分以上待っただろうか、パスポートが本物であることが証明され、審査が開始された。今度は割合スピーディーに審査が進む。審査が終わり、スタンプの押されたパスポートを受け取ると、係官が「お疲れ様でした」と言いたいのか、にっこり微笑んでいた。

その後、ロシアではおきまりのイミグレーションによる(出入国審査は国境警備隊が行う。イミグレーションは内務省)パスポートのチェックと登録が行われ、その後に税関検査。買い出し客が多い中でカバン1つだけなので、すぐに検査は終わり、建物を後にした。



ブラゴベシチェンスクにはいくつかホテルがあり、そのうちユービレイナヤホテルというのがどうやら代表的なホテルらしいことがわかっていた。しかし、川に近いホテルはドルジバホテルだそうだ。どちらも、実際にどう行けばよいのかよくわからなかった。

タクシーに乗ろうかと思いかけたその時、埠頭前にバス停があり、何人かの人が待っているのを見つけた。おそらく街の中心に行くだろうから、バスに乗って街に行くのも悪くはないと思い、バスを待った。

数分後に来たのは、バスと言うよりは乗り合いタクシーのようなバンだった。急いで乗り込んで、行き先として「ホテル」と言うと、運転手は頷いた。おそらく近くまで行ってくれるのだろう。



3つめくらいのバス停で、「ここで降りろ」と身振りで教えてくれる。「ホテル」というと「あっち」と指をさされる。よくわからないが、周囲の雰囲気は特に悪くはないし、まだ昼間なので、大丈夫だろうと思い、そちらの方向に向かって歩き始める。

数分歩くと、何となくホテルの雰囲気を漂わせる建物が見えてきた。看板には「ドルジバ」と書いてある。予約はないが、とりあえず中に入り、宿泊できるか交渉してみることにする。

ホテルはほぼ満員で、4000ルーブルの部屋しかなかった。しかし他のホテルがどこにあるかわからない以上、ハイシーズンである6月に部屋を押さえておかなければ泊まるところがなくなるかもしれないという恐怖感もあるので、地方都市のそれほど高級とはいえないホテルだが、その値段で泊まることにした。

高級な部屋だけあって、ホテルからはウスリー川(黒龍江)がよく見える。対岸の黒河の街も少し遠いが見えた。黒河の街からこのホテルまで3キロくらいしか離れていないが、渡ってくるのに3時間ほどを要した。北東アジアでは国境越えは平均して数時間かかると見ておかないといけない。これが同じ中国の隣国でも、ベトナムとかラオスだともう少し迅速にことが運ぶ。

国境通過にかかる時間は、その国や地域の緊張や矛盾の皮膚感覚(実際の緊張や矛盾の度合いではなく)と関連があると思う。その意味で北東アジアは、清とロシアの勢力争いや日清・日露の戦争、満州国の存在、東西冷戦や中ソ対立といった、世界的な大国間の緊張の中に長い間あった地域で、その名残が色濃く残っている地域だということと、もともと国境自体が人口が少なく、頻繁な往来がなかった所に設定されたので、皮膚感覚として国境の敷居が高いのだろう。

ブラゴベシチェンスクで1泊した後、ハバロフスクに向かう。市内から空港までは約25キロ。ホテルから空港までのタクシー代は400ルーブルだった。ウラジオストクで、1キロだけ乗っても100ルーブル以上とられた経験があるので、空港までのタクシー代がいくらになるか気になって仕方なかった。降りるときに足りないと言われることを覚悟で500ルーブル渡すと、100ルーブルおつりを返してくれた。ウスリースクもそうだが、田舎の街のロシア人は正直な人が多いようだ(つまりウラジオが例外ということか)。



ブラゴベシチェンスクからハバロフスクまではダリアビア航空のアントノフ24型ターボプロップ機に乗った。チェックインしても座席を指定してくれないのでおかしいと思っていたが、自由席だった。がらがらだったので皆が思い思いの席に座っていた。2時間ほどでハバロフスクに到着したが、途中に見た半分湿地の原野が続く風景は、耕地が広がる中国・東北地方とは異なり、雄大な自然の風景だった。

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